「ソフトテニスの世界」―ソフトテニスとともに60有余年― 昭和36年卒業 西村信寛

1. はじめに

本稿はもともと浦和高校ソフトテニス部OB会の麗和会からの依頼で寄稿したものであるが、慶應義塾三田ソフトテニス倶楽部よりも依頼があったため、ほぼそのままの内容で寄稿させていただく次第である。幸い6年ほど前に自分とソフトテニスとのかかわりを何か残しておきたいと思い立ち、それまでに私がいろいろな時点で寄稿した記事を整理、コピーし年毎にスクラップしたものがあった。内容的には日本連盟機関誌や種々の会報などに個人として寄稿したもの、連盟の役職肩書付きで寄稿した文書、自分が起草した連盟会長名等の公文書や制度、諸規程およびその解説書さらにはその時々の写真などが主なものであるが、A4版120ページのファイルで5冊を超える資料となった。今改めて依頼に沿った文章を作成するのは至難なのでそのスクラップブックから適当な部分を引用しながらリメークのかたちで書いてみることにした。私がソフトテニスを始めて60年以上になるが、ソフトテニス界は来年創始130年、日本連盟創立90周年を迎える。考えてみるとその歴史の半分近くに深くかかわってきたことになる。自分自身の回顧が与えられた表題の「ソフトテニスの世界」に少しでも近づければ幸いである。

平成25年10月28日 記

 

 

  1. はじめに
  2. あこがれ そのⅠ ―ソフトテニスとの出会い ― 
  3. あこがれ そのⅡ ―浦高での部活動―
  4. あこがれ そのⅢ ―トップ選手との交流(1) ―
  5. あこがれ そのⅣ ―トップ選手との交流(2)―
  6. 連盟役員の仲間入り
  7. あこがれ そのⅤ ―トップ選手のプレー拝見 ―
  8. ソフトテニスの諸課題に挑戦
  9. ソフトテニスの指導者像
  10. ソフトテニスの基本技術と戦法に関して
  11. 終わりに

 

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2. あこがれ そのⅠ ― ソフトテニスとの出会い ―

昭和25年、私が小学校6年の時、姉が浦和第一高女でテニス(軟式庭球)をしていて、東京で行われたインターハイに出場したので母親に連れられて見に行き優勝した四日市女高の生川久恵・島田一子組のプレーにすっかり魅了されてしまった。後衛の生川選手は華麗なフォームで球さばきが抜群であり、前衛の島田選手は大柄な体から繰り出すボレー、スマッシュは強力かつ豪快であった。初めてのソフトテニスとの出会いはその後も強く印象に残った。姉の試合のことは殆どおぼえていない。
このペアは高校卒業後プレーから遠ざかっていたので間近にプレーを見ることはなかったが、60歳になった頃から福田・明井組として再び活躍をはじめ全日本シニア部門のタイトルを独占した。福田さんは80歳を超えた今でも全国トップの活躍をしている。
その福田さんは地元大阪府の連盟役員や全日本レディスの役員もされており今では親しく話をするようになりまた明井さんとも最近コートでお会いすると話をするようになった。初めての出会いのことを思うと感無量である。余談だが今年の2月にシニアソフトテニスの台湾親善ツアーに参加したが、福田さんもメンバーにおられた。この歳になって福田さんと一緒のチームでテニスができるとは夢のようなひと時であった。

私は小学生の時は中学で野球選手をしていた兄の影響もあって野球が大好きで近所の少年野球クラブにも所属しており、中学入学前の春休みには兄に付いて野球部の練習にも球拾いで参加した。しかし中学(埼大附中)に入り、いざ何部に入るか決めるときになって担任の先生から「西村君は器用だけれど体が小さく体力がなさそうだから野球よりテニスの方が良いと思うよ」と言われいとも素直に受け入れた。この先生には初めて見た時から美人というかかっこいいというか子供ながらあこがれの気持ちを強く感じていた、また生川・島田組との出会いもあったので、反論など考えもしなかった。
当時テニス部の1級上には後に浦高に入った黒木さん、榎本さんがおられ、指導を受けた。
最初のころは空振りの練習ばかりでボールを打つ機会は少なかったが、今になって思うとそれがフォームづくりの基礎になったようだ。
黒木先輩は中学の時から県レベルで活躍していて、いつかは黒木さんのようになりたいと思うようになった。そして黒木さんを追って私も浦高をめざし、入学と同時にすぐさま軟式庭球部に入った。

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3. あこがれ そのⅡ  ― 浦高での部活動 ―

あこがれの浦高軟式庭球部に入部し私は毎日の練習が楽しくてしょうがなかった。また当時は今と違い大学受験のため特別のことをしなくてもすんだので授業時間以外は毎日コートに立つことができた。浦高での部活動のことは平成8年に田中美明埼玉県連会長(旧田口さん)(高5回卒)から依頼され寄稿した埼玉県連60周年記念誌に掲載されているので引用することにしたい。

私のソフトテニス人生を振り返るとその原点は浦高時代にあったと思います。その頃は好きで、好きで、夢中になってソフトテニスをしていました。なぜそんなに夢中になったのか以前も考えたことがありますが、よき師、よき先輩、よき仲間に恵まれ、そしてよき環境にも恵まれたことで気持ちの上で素直にとけこめたし、だんだん腕も上達してきたこともあって、意欲もかきたてられたのだと思います。また当時は今ほど受験本位でなかったので今の人達よりその面も良かったと思います。
一級上の黒木実さんは中学、高校を通じ、最も身近な目標でした。高校卒業までついに超えることはできませんでしたが、黒木さんへのライバル意識がソフトテニスの意欲に大きく影響したことは明らかです。
よき先輩たちもいつもコートに来てくださり、練習指導はもとよりコート外でもいろいろ面倒をみていただきました。田口先輩は私たちの試合にはいつも付き添ってくれ、私の体の具合が悪い時など家にまで迎えに来てくれました。近藤道也先輩(高4回卒)は私が上達するにつれ、よい練習相手と思ったのか、毎日、しかも何度となく乱打や練習マッチを要求されました。また家が近かったので練習が終わってから時々近藤さんのスポーツ店に寄りテニスの話をして過ごしました。
仲間では3年間コンビを組んだ池田吉一君、一年下の村田潔君(現OB会長)、更に一年下の野口洋君(早稲田大卆)などがおり卒業後は嶺隆君・山田尭君(高12回卒)が活躍してくれました。後輩には絶対負けまいと頑張っていましたが、村田君とはコート外でも楽しい思い出がいろいろあります。

最近いつも一緒にプレーしている女性から東京の予選で優勝し、レディス関東大会の代表になったとのメールがあった。私の返事はとりあえず「意欲をもって努力すれば結果はついてきます。」であった。高校時代も今も考えは変わっていない。ただソフトテニスの場合ダブルスが主体のためもう一つ大きな影響を持つのはパートナーだと思う。私の場合浦高時代3年間池田吉一氏と組めたこと、大学時代は4年間同期の糸川雅也氏と組めたことが幸いしたと思う。実力のレベルが同じであればなお良いが、少しぐらい違っても取り組み意欲の上で気が合って、お互いに気持ちが通じれば充分である。特に試合の時はお互いの信頼感が重要である。池田君とは学業や私的面などコート外では互いにわれ関せずであったと思うが、ことテニスに関してはいつも一緒であった。だから特に相談しなくてもコートに行けば必ず二人そろって練習できた。

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4. あこがれ そのⅢ  ― トップ選手との交流(1)―

私が慶應大学を目指したのは小さい時から好きな学校だったこと、いわゆる慶應ボーイにあこがれていたこともあるが、その上に伊藤寿夫氏(高5回卒)、半田順康氏(高6回卒)、大岩博信氏(慶應高卒 浦和在住)など慶應大の諸先輩が頻繁に来て一緒に練習してくれたことで、慶應ならば早く部生活になじめると思ったことにもよる。担任の先生や親からは国立受験を勧められ、一時期クラスの何名かで放課後補修をさせられたこともあったが志望は変わらなかった。もし慶應受験に失敗し、浪人していたらテニスをあきらめ国立を目指そうという意識もあったので、そうなっていたら私の人生は全く違うものになったであろう。考えると何かそら恐ろしいような気がする。

私が入部したとき、キャプテンは越前真生氏(昭和33年卒)であった。越前先輩は入学直前の春合宿で私の練習ぶりの熱心さと向上意欲を見てとり、春の関東リーグ戦からレギュラーに抜擢してくれた恩人である。そしてこの年、慶應大は1部に昇格し、私が卒業する年まで1部を維持した。越前氏とは卒業後、交流が途絶えていたが、越前氏はかなり前から日本のシニア組織のリーダーとして活躍しておられることから最近はしばしばお会いし、お酒を飲みながらお互いの活動状況などについて長時間話し合うようになった。
大学に入ってからソフトテニスに対する目標意識は根本的に変わってきた。高校の時は校内を除けば市とか県レベルが目標で全国的な視野は全くなかったのが、大学では通常の試合が全国レベルのトップクラス相手であり、そのレベルに挑戦することが目標になった。入学当時全国レベルでのトップクラスには立教大の太田光男、石橋弘、鍵谷耕治選手、日本大の土生成文選手、中央大の井山泰介、永田修三選手、法政大の黒田延敏、横溝政志選手などがおり、社会人では神戸交通局の藤田康夫、武田理男,六島明児、川口雅弘選手、八幡製鉄の赤岸十四男・昭三兄弟、岡山の今井芳夫、三宅平選手、東京には鳥井久充、斎藤孝弘、橋本八郎選手などがいて覇を競っていた。自分のことはともかく機会あるたびにこれらの選手の素晴らしいプレーにあこがれ、観戦した。またいつかこれらの選手と親しくなりたいと夢見た。そしてその機会は案外早く訪れた。最初は大学1年の時全日本学生大会の終わった翌日であったが宿舎の近くで練習をしていたところそこに立教大の太田、鍵谷選手たちが現れ、練習試合をしてくれたのである。次は翌年春、明石合宿の終わった後であったが、慶應の合宿でコーチをしてくれていた当時同志社大監督であった呉啓三郎氏が我々を神戸交通局の練習に連れて行ってくれ、そこで藤田・武田組、六島・川口組が試合をしてくれたのである。この2度の出会いは私を有頂天にした。ますますソフトテニスに熱が入ったのは言うまでもない。その後これらの人たちとは親しく話ができようにもなった。
大学3年の時それまでの実績により西村・糸川組で学生東西対抗の東軍代表に選ばれた。監督の意向で私は一級下の法政大吉田隆蔵氏と組むことになった。吉田氏は名門広島山陽高校の出身で法政大の主力前衛であったが人柄も良く気持ちよくプレーすることができた。結果翌年の東西対抗も同じコンビで出場し東軍は圧勝、我々も2年間負け知らずであった。
大学4年の時は一般男子の試合でも実績を挙げたので西村・糸川組で大学生を含む一般男子の東西対抗に選ばれた。その時の東軍監督は伝説的名後衛といわれた熊埜御堂公福氏であったが私の練習態度を見て、日本最高の前衛の一人でかつては熊野御堂氏のパートナーとして天皇杯をはじめ数々の優勝実績のある鳥井久充選手(日本大卒 松倉商店)と組むよう指示された。はじめは戸惑ったが鳥井氏は10歳近く上なのでかえって素直にまた気兼ねなく対応できたようだ。前衛練習やゲーム中の注文も多かったが精一杯応えようと頑張った結果岡山で行われた10組対抗各9ゲームマッチの殲滅戦本番で藤田・武田組、今井・横溝組、苔口・原組などそうそうたるメンバー5組を倒し、最終戦の六島・川口組とスリーオールになったところで日没引分けとなった。その実績からその年のアジア選手権大会の日本代表に加えられ、再び鳥井氏と組んだが準決勝で敗れ3位であった。短い期間であったが鳥井氏と練習や試合を共にすることができたことは私にとって素晴らしい思い出であるとともに、日本一と目される前衛のプレーのすごさを知ることができた。

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5. あこがれ そのⅣ  ― トップ選手との交流(2)―

先輩の加藤昌孝氏(川越高 東京大昭和31年卒)や松田武氏から熱心に勧められ朝日生命に入社した。朝日生命は社長自ら硬式テニスが趣味でひまさえあればコートに立つような方であったこと、またかつて東京軟式庭球連盟の会長をされていたことなどでテニスは硬軟とも盛んで多くの選手が在籍しており社会人として選手活動を続けるにはありがたい会社でもあった。当時5歳上の松田さんは後衛として活躍していたが私と組むために前衛になるということであった。最初はどうなることかと思ったが松田さんが転職のため退社するまでの約3年間コンビを組み最高の成績は昭和38年の天皇杯第3位であった。また、昭和38年下関国体の東京代表に選ばれ出場した。


私のピークは大学4年の昭和35年から昭和40年に肩を壊して現役引退するまでの約6年間であったがその期間に大阪インドアや東京インドアにも出場できた。東京からの常連は上田高明(関学大昭和38年卆 安田生命)・坂本安司(日本大昭和37年卒 長瀬ゴム)組 、黒田正敏(法政大昭和34年卒)・鳥井久充組(共に松倉商店)、斎藤孝弘(明治大昭和32年卒)・橋本八郎(現姓多田、大阪経大昭和34年卆)組(共に昭和ゴム)と我々の4組で、練習や試合など多くを共にした。特に上田氏と坂本氏は私より若く年齢が近かったので仲が良くコート外での付き合いも多かった。残念ながら上田氏は一昨年他界したが、坂本氏は福山市在住で今でも交流している。実戦では皆私にとって雲の上のような選手ばかりであったので、練習や試合など一生懸命に挑戦したが、大きな大会の準々決勝以上では殆どこの3組のいずれかに叩かれ敗退した。特に上田・坂本組にはことごとく完敗で昭和39年に佐藤至彦君(京都大昭和37年卒三菱重工)と組んで天皇杯第2位になったときも優勝したのは彼らであった。ちなみに佐藤氏は坂本氏に紹介されて組むことになった選手である。翌年私は肩を壊しテニスができなくなってしまったので佐藤氏とのコンビは短かったが彼はコンビ解消と同時にソフトテニス界から去って行った。


話が変わるが現役当時私は斎藤孝弘氏からある宴席で冗談とも真面目ともつかぬ顔で「仏の西村」と評された。たぶん大事な時に負けてくれるという意味だろうと半ば反発したが、その後現役を引退したとき一足先に連盟役員になっていた斎藤氏から熱心に勧められ、役員の末席に加わった。今では「仏の西村」とは私に対する人間性の評価だったのだろうと思うことにしている。斎藤氏に聞いてもそんなことは全く憶えていないであろう。
今年の4月にナガセケンコーの大野美沙子監督引退慰労パーティーがあり、日本連盟代表として招待された。私にとって大野さん(旧姓右近 広島女子商昭和34年卒))は監督としてよりも選手としての印象が鮮烈である。またこのパーティーで同席した当時右近選手と勢力を二分していた長瀬ゴムの安田きぬ(現姓中村)・根岸春枝(現姓松田)・小沢文子(現姓高橋)選手や次の時代を背負った糸賀公子選手(結婚後も糸賀姓)、文違菊代選手(現姓山岸)、そのほか数多くの皇后杯チャンピオンと歓談した。いずれもその時々に私が魅せられた選手ばかりである。現役当時話をすることもなかった選手たちと親しく接することができるなど夢のようであった。出席者のほとんどが大野監督の選手時代を知らないこともあり、その会で当時の右近さんを振り返り次のような趣旨の挨拶をさせてもらった。

私が東京、大阪の全日本インドアに出場していた昭和35年から40年の間に特に印象深いのは山田裕子(現姓米広)・右近組(広島 東方金属39年からは電電中国)と安田・根岸組(東京 長瀬ゴム)の熱い戦いである。私は自分の試合が終わってもこの2組の対戦を心ときめかせて観戦した。大阪の全日本インドア選手権大会では6年間で山田・右近組が5回(うち一回は柳原美恵子・右近)、安田・根岸組が1回優勝し、決勝対決は3回に及んだ。まさに圧倒的な強さでその時代を彩った選手たちである。その当時の後衛は私などを含めてスピードよりもコントロールのよい配球を重視する選手が多く山田、安田両選手も例外ではなかった。ひたすら耐える後衛に支えられ勝負は前衛にかかってくる。根岸選手がセンスの良い動きと華麗な球さばきで観客を魅了したのに対し、右近選手は俊敏な動きと一球にかけるものすごい気力で根岸組を凌駕した。勝負どころで右近選手が後衛を激励しながらコートを縦横に駆け回る気迫に満ちたプレーは今でも私の記憶に焼き付いている。その右近さんがナガセケンコーの大野監督として数々の実績を残し、かつてのライバル安田、根岸さんたちに囲まれ有終の美を飾っていることに何か不思議な感動を覚える。

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6. 連盟役員の仲間入り

現役を引退してしばらくたってからすでに東京連盟の役員になっていた斎藤孝弘氏(明治大昭和32年卒)に勧められ東京連盟の役員に加わった。役員の中には若手のリーダー格として林敏弘氏(早稲田大昭和31年卒)もおられた。この3人は同じ頃日本連盟の役員にも推挙された。当時の連盟役員はプレーヤーを兼ねる年配者が多く、自己本位の運営が目立った。事業計画や予算・決算もあいまいで、理事会などの会議は仲間うち意識が強かった。また日本連盟から派遣される大会役員にはプレーヤーを兼ねるか観光や宴席目当ての者もおり大会開催地のひんしゅくをかったりしていた。我々若手と自負するメンバーはこれらの風潮を変えない限りいずれソフトテニスは衰退するとの思いで林氏を中心に結束し改革を目指した。その結果何年かのちに大会主要役員のプレーヤー出場禁止、大会役員の派遣限定、コート以外での行動自粛が実現し、続いてプレーヤーにも開会式までに受付を済まさない参加者は棄権とするなど改善が及んだ。これらの改善は開催地連盟からも歓迎され、現在に至っても変わりない。またこれらの改革はその後組織全体の健全・適正化に大きな影響を与え現在に至っている。今でも私は実現の先頭に立って尽力した林敏弘氏の最大の功績だと思っている。
我々3人はそれぞれ持ち味が違っていた。林氏は早稲田大学の教官として大学の監督も務めていたが腹が据わった人で包容力があり、指導性が高い。そして自ら、教員は視野が狭く頑固な者が多い、自分もどうもその傾向があるようだとしばしば口にしていた。斎藤氏は選手の指導、強化に熱意があり、母校明治大学の監督や女子高校のコーチとして実績を挙げていた。また連盟の在り方や将来構想にも卓越した考えを持つ論客であったが、思いを実現するための方策立案や、関係者への根回しなど実務的なことは苦手のようであった。
私は両名に比べ存在感は強くなかったと思うが企業の一員であったので施策や制度の立案、規程や通知文書の作成、施策実現の手続きなど彼らにない機能を果たすことができたと思っている。そのほか我々と意思を同じくする先輩には奥田忠雄氏(岐阜)、小澤洋太郎氏(埼玉)、藤野光久氏(東京)などがおり、また年齢の近い仲間では中山昌作氏(徳島)、内藤享佑氏(東京)などと機会あるたびにソフトテニスの普及振興について議論を交わした。
現在は理事会メンバーも若返っており事業規模や財政規模も格段に増強しているが、当時からの厳正な運営に対する姿勢や積極的な事業方針は受け継がれていると思う。昨年からは組織も公益財団法人に移行されており、社会的にも関係団体からも一層の適正運営が要請されている。

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7. あこがれ そのⅤ ― トップ選手のプレー拝見 ―

私は自分のプレーを楽しむことももちろん好きだが、その時代を彩るトップ選手たちのプレーを観るのが同様に好きである。連盟の役員を長く続けてこられたのは大会に赴くたびに選手の素晴らしいプレーに見入ることができたのも大きな要因だと思う。トップ選手といっても勝ち負けに執着し、自分勝手な態度で他のプレーヤーや観客に不快感を与えるような選手は感心しない。好きなのは技術と戦法にすぐれ、プレーに集中して頑張る華のある選手たちである。こうした華のある選手のプレーを観ていると自分までその雰囲気に巻き込まれていくのである。石原裕次郎や長嶋茂雄にあこがれたのと同様のファン心理なのだろう。
私は日本連盟の理事になって10年間ほど機関誌の編集に携わった。その間誌面を少しでも盛り上げたいのと個人的な興味から私はトップ選手のプレーをカメラをもって追い続け「プレー拝見」のタイトルで写真と評を連載した。「プレー拝見」は昭和53年11月号から広報担当を離れることになった63年3月号まで約10年間続いた。掲載終了時の「編集後記」を以下に引用する。

この「プレー拝見」は私が機関誌を担当することになってあちこちの大会を観て歩くうちに優れた選手のプレーを間近に観て感動を覚えたことを文章だけでなくじかに表現できたらと思い立って始めたものです。この間特に印象に残るのは文違菊代(長瀬ゴム)、横江忠志(中京大OB)、稲垣道夫(日体大OB)、木口利充(中京大OB)、若梅明彦(中京大OB)、糸賀公子(長瀬ゴム)、吉留和代(河崎ラケット)、西田マユミ(東芝姫路)、籔崎達規(中京大OB)、日比野いおり(長瀬ゴム)、神崎公宏(三重高教員)選手などです。特に10年間カメラのファインダーから選手の動きをつぶさに拝見していて躍動感があって最とも素晴らしい被写体と感じたのは文違選手です。それに彼女は顔といいプロポーションといいスポーツ選手としてのスター性を十分そなえており、いわゆる絵になる選手だったと思います。次が横江選手で彼の華やかな動き、特に深く追い込んだスマッシュは天与の個性を感じます。また守りに重点をおいている時と積極的に攻撃に入った時の変化がわかりやすいこともシャッターチャンスを待つ者にはありがたい特徴です。・・・・(後略)

「プレー拝見」で最も多く扱ったのも文違、横江の両選手だった。私は大会役員であったが選手としての彼らと会話をしたことは全くなかった。大会期間中トップ選手たちは他人と談笑するようなことはほとんどなく、近寄りがたいものがあった。今でも大会で待機中の選手たちが大声でしゃべりあっているのを見るとついもうすぐ負けるかな、などと思ってしまう。後日談であるが横江選手は地元高知県連盟の理事長になり、四国を代表して日本連盟理事にもなって強化委員長などを歴任し、現在も高知県連盟理事長である。その関係で親しく付き合うようになり、酒飲み仲間の一人でもある。ある宴席で彼に「西村さんもテニスをやっていたのですか」と言われ、そばにいた者が私の戦歴を告げると、即座に「失礼しました。」と最敬礼されたものである。それほど歳の差があるということか。文違選手はナガセケンコーを辞めるとすぐに結婚してソフトテニスから遠ざかってしまったので、その後交流の機会がなかったが今年4月の大野監督退任慰労会で発起人の一人として司会を務められたので初めてと云っていい会話を交わした。彼女は相変わらず可愛らしく華やかさを感じた。しばらくたち当日の写真を添えて礼状もいただいた。はたして彼女は当時私のことを知っていたのだろうか。

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8. ソフトテニスの諸課題に挑戦

会長だった海部俊樹氏が総理大臣になられて競技団体会長の兼務はまずいということになり、将来の復帰を念頭に、平成元年、林氏が会長代理に、私は専務理事に推挙された。会社では部長になっており、10代後半の多感な子供も3人いた。また自分の両親も同居していたのでかなり躊躇したが、乗りかかった船だと思い引き受けた。結局家族にしわ寄せがいき特に妻に苦労を掛けてしまった。
専務理事になったことで自分が責任執行する立場となり、相談相手は主として総務委員長に就いた岐阜の奥田忠雄さんであった。2人はあらゆる機会に連盟の将来について議論を交わし、時には夜が明けることもあった。我々の提言に林氏は最後の責任は自分が持つといって相変わらず支えてくれた。
従来からソフトテニス界の課題は多い。中でも問題は国際的な競技でないためマイナー競技と目され、一般社会的にも知名度が低く、マスメディアの扱いもきわめて低いことであろう。さらに日本で生まれたとはいえテニスから派生した特殊な競技であり、日本古来の競技でもなければ外来の競技でもない点も一般受けしない要因と思われる。日本においては中学・高校の部活動に支えられ登録競技人口の最も多いスポーツの一つでありまた関係団体からは堅実かつ強固な組織運営について高い評価を受けているものの、このような競技を国内はもとより海外でこれからどう普及発展させられるのか難しい課題である。
多くの課題の中で私が関与したこれまでの取り組みについていくつか記述したい。

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(1)長期基本計画(5か年計画)の策定と実施

私が日本連盟理事に就任する10年程前に皇太子ご成婚(現天皇・皇后両陛下)があり、テニス(硬式)が取り持つ世紀の出会いと喧伝され、当時はやり始めていたテレビでパレードが放送されたりしたので、テニスのプレーをしていない女性までがラケットを持って街中を歩いたりしていた。その後に石黒修氏(慶應大昭和35年卆 俳優、石黒賢の父親)がプロテニス協会を設立、神和住純をはじめトッププレーヤーがプロに転向し、私の勤務する会社でも現役で活躍している選手たちが相次いで退職してプロになった。それまでテレビなどでテニスと云えば軟式が前提だったものがいつの間にか硬式になっていった。世界のトッププレーヤーを招待してのイベントが東京体育館で行われたりして私も観戦したことがある。いわゆるテニス(硬式)ブームである。そのような状況の中で軟式の関係者は一様に危惧を覚え、種々の会議でもこのままでは今に軟式庭球は硬式に押されて衰退してしまうのではないかとの悲観的な発言が目立っていた。私たち若手グループは何とかこうした風潮を打破したい思いに駆られ、そのためには競技の在り方や組織運営を抜本的に改革する必要があると考えた。前述の大会時における役員や選手の身勝手な行動の是正なども真っ先に改善されたことであるが、更に長期的な改革の方針を策定、周知し、その方針に沿った事業の刷新を図ることが重要と考えた。林専務理事はその考えを具体化するため企画委員会を新設し私が委員長に推された。私はソフトテニス界が抱える問題を整理し、長期的な方針やその実現のための具体的な事業計画を考え、機関誌や理事会、評議員会などで中間的な報告や提言を行いながら内容の調整を図り、できることから実施を図った。具体的な長期基本方針が5か年計画として全国評議員会に提案され確認されたのは昭和61年12月のことであり、その内容は次のとおりであった。
Ⅰ魅力あるソフトテニスづくり
(1) 国際性の向上
(2) 競技の合理性の向上
(3) 社会性、文化性の向上
Ⅱ活力ある組織づくりと愛好者の増大
(1) 組織の拡充
(2) 競技人口の増大
(3) 指導者の増大
(4) 一般愛好者の増大
Ⅲ財源の確保
(1) 本部、支部財政の強化
(2) 受益者負担原則の浸透
(3) 維持会員増強
(4) 事業収入の拡大
(5) 基金造成
今でも長期基本方針は5か年ごとに再策定され継続されている。また順次改善されているとはいえソフトテニスの抱える基本的な課題は当時と変わりなく、挑戦が続いている。ただ方針の明確化と積極的な改善の取り組みによって大きく変わったことは一時期の悲観的な風潮がなくなり、関係者の前向きな姿勢が顕著になったことである。幸い今でもソフトテニスは国内で最も競技人口の多い大衆的なスポーツの一つとして堅実に維持されている。
基本方針に沿って国内においては小学生からシニアまで細分化された年齢層で全日本大会が整備されるとともに組織、財源の強化策として平成11年から会員登録制度が実施された。

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(2) ソフトテニスの国際化推進

昭和61年に始まった日本連盟の長期基本方針の課題は多くが国内のものであったがその中で国際化の推進については最も重要かつ困難な課題であった。ソフトテニスはボールが違うとはいえテニス(硬式)から派生した競技で日本、韓国、台湾以外では殆ど行われていなかったスポーツであり、昭和50年から世界大会が開催されているものの参加国は数か国に過ぎず、韓国、台湾を除けばほとんどの参加が少数の日系人であった。しかもソフトテニスの主要なメンバーである台湾は中国との関係で国際化推進上問題があり、かつ日本の役員の多くが台湾の人たちと密接な親交があるという状況もあった。また国際振興には多額の経費を要することも想定された。しかしそれでもなお国際化の推進はソフトテニスの更なる発展のために必要であるとの認識は関係者に共通で、理事会や評議員会でも少数を除けば進めるべきとする議論が多かった。国際化の推進なくしては将来を担う子供たちが夢を持てない、またマスメディアからも相手にされないなどの思いが強かったのだと思う。また硬式に凌駕されかねないという危機意識も強かった。結果、国際化推進は以後のソフトテニス普及活動の旗印となり、「オリンピックへの夢」が語られるようになり、国際化推進審議のために開催された臨時評議員会では基本的な推進方針とそれに伴う財源確保のために基金の利息を充当することや各都道府県連盟会費を倍増するなどの提案が総意で承認され、我々の意識も高揚した。
その後の経緯について寄稿文章から引用することとしたい。

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□ ソフトテニスの国際化(平成6年三田ソフトテニス倶楽部部報より)

日本連盟は国際化の推進を基本方針に据え、ここ数年、海外普及に鋭意取り組んできました。私も及ばずながら責任者の一人としてその任に当たっておりますが、とりわけ宮本行夫氏(元広島女子商、電電中国、東京女子体育大監督)のご尽力によるところが大きく、また内藤享佑氏(慶應大34年卒 元日本連盟理事・国際委員長、元三田ソフトテニス倶楽部会長)にも大いに助けられております。従来ソフトテニスは日本の他は韓国、台湾が主体であってそれ以外の国は日系人を中心とする一部愛好者の活動といった状況でした。しかしそれではいつまでたっても正式な国際競技として先の見えない話です。日本連盟では身近なアジア地域に的を絞り、かつ目標としてIOCにも直接関連するアジアオリンピック評議会(OCA)の承認およびOCAが主催するアジア競技大会への参加を目指すことで、普及と組織化を図ってまいりました。そのきっかけとなったのは1986年(昭和61年)に中国・北京へ単身乗り込んだ宮本氏と当時の中国国家運動委員会科教部都浩然部長との出会いといえましょう。私は宮本氏から報告を聞き、中国のソフトテニスへの取り組みが国家レベルで行われ、都氏はじめ幹部の熱意が本物であることを感じ、日本連盟が全面的に支援してこれを成功させねばならないと考えました。さらにそれをバネにアジア全域への普及とOCAへの加盟、アジア競技大会への参加が実現できるとの確信を抱きました。その後の進展は今振り返ってもよく可能であったと思うほど急激でした。87年末、中国軟式網球協会発足、88年2月海部俊樹氏を会長に迎え日本、中国、韓国、インドネシア、マレーシア、ネパール6か国によりIOC憲章に準拠ずる新アジアソフトテニス連盟設立、同7月アジア競技団体連合会(GAASF)加盟、同9月ソウルでのOCA総会においてソフトテニス競技をOCA憲章に基づき承認、同11月先の6か国に中華台北、タイ、フィリピン、シンガポール、香港を加えた11か国・地域で第1回アジアソフトテニス選手権大会(名古屋)開催と続き、翌89年5月には北京アジア競技大会でのソフトテニス公開競技実施が決定され、90年にその本番を迎えました。本大会には先の11か国・地域に加えてマカオ、モンゴル、モルジブの参加を得ました。日本連盟ではこれに並行して94年に開催される広島アジア競技大会におけるソフトテニスの正式種目実施を果たすべく活発に活動を展開し、ついに実現させることができました。さらに将来的には国際連盟を活性化し、IOCへのアプローチも行いたいと考えております。そのためには、硬式の壁の厚い欧米に何としても普及を図らねばなりません。わずかな年月でここまで展開していたわけですが、その間、徹底した日本連盟関係者の支持のもと、多くの方々の献身的な活動や資金的支援を頂けたことは幸いであり、深く感謝しております。

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□ 競技規則の抜本改定(新ルール制定について 機関誌平成4年11月号より)

日本連盟はアジア地域を中心とする国際普及の積極的な推進を基本方針とし鋭意活動をしてまいりましたが、その結果北京アジア競技大会のデモンストレーションの成功、広島アジア競技大会正式種目実施決定などの成果を挙げるとともにその間第1回名古屋、第2回ジャカルタアジア選手権大会の実施、第9回ソウル世界選手権大会の実施と毎年国際大会が盛大に開催される状況にあります。そして現時点で加盟国・地域はアジア連盟では18、国際連盟では22を数えるに至っております。こうした普及活動の中でソフトテニスになじみの薄い海外の人達が興味を持ってこのスポーツに取り組み、定着化を図っていくには指導者の育成、用具・用品の調達も重要な課題ですが、一方で現行ルールでの競技性に疑問を抱く向きも多く、アジア連盟総会の場で問題提起されていました。

その大きな要因は
*ダブルスが中心でしかもパートナーの役割が限定され、平等性に欠ける。またシングルスはなぜやらないのか。
*風やコートサーフェイスなど環境の違いによって競技が大きく左右される。
などでこうした問題意識は日本国内でも一部にあったところであり、国際普及の観点からの検討は基本的には日本での更なる普及にもつながる筈であるとの考えから当連盟としてもこの問題に取り組んでまいりました。本年6月の評議員会で原案を提示し、さらに8月28日から30日までの3日間全国からの代表を集め、千葉県白子町において全国新ルール研修会と拡大審判研修会を実施して原案のチェックを行いました。その後理事会で再審議のうえアジア各国との調整を経て10月20日に開催されたアジア連盟総会に臨みました。アジア連盟での正式決定により、今後国際大会ではこのルールが採用されることになりましたが国内の対応について早急に方針を定める必要があります。
次に新ルールの改正ポイントについて要点を説明します。
Aサービス交替制の採用
ゲーム中に2人のパートナーがそれぞれ2本ずつ交替でサービスする。
Bポジションの制約を設ける。
 サービスをするときレシーブをする者以外のプレーヤーはサービスが終わるまでベースラインの後方に位置する。
Cファイナル時にサービス、レシーブとサイドのチェンジを行う。またこのことに合わせゲームの勝敗を7ポイント先取(6オールでデュース)とする。
Dシングルスを正式に導入する。

新ルールについては国内では反対が多く、そのために国際大会での採用を先行し国内適用については時間をかけて議論し、また「国際ルールに関するQ&A」を作成して丁寧に説明と説得をした。特に中体連、高体連は移行が難しいという意見が多かったので全国代表者会議を開催してもらい説明に努めたところ次第に同調者が増え最終的には変えるなら早く実施すべきとの情勢になった。
新ルールの中で最も反対の多かったのはボジションの制約であった。このことは理事会の中でも意見が二分され、海部会長のもとにもかなりの署名者をもって反対意見書が提出されたりした。いつもは我々の提案を支持してくれる林敏弘氏も「このような制約はスポーツの本旨に反する。」として内心反対であった。結局理事会で無記名投票を行ったところ1票差で採用が決定された。その後国内で新ルールは実施されたがポジションの制約についてはは審判の判定が極めて困難なため違反者が多く目立ちまたこれを逆手にとって相手の違反を故意に誘い出す戦法まで飛び出し批判が強くなった。結局このルールは10年後の再改定で廃止となったが、他のルールについては平等性に優れていることで評判も良く今では定着している。

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□ ソフトテニスの名称変更(提言「軟式庭球」の名称について 機関誌昭和60年2月号より)

昨年9月号の本誌座談会「創始100周年を迎えた軟式庭球」の中で表氏(現日本連盟会長)が次の100周年に向けての改革として「軟式庭球」という名称から軟式の2字を消すことを提唱している。私も前からこうした意見に同感である。この課題は関係者の中ではしばしば取り上げられ、理事会でも論議されたことがあるが、現実的には簡単でないので実際にはなかなか手がつかない状況である。変更すべきという理由は「軟式庭球」という用語は硬式の亜流のようで二流的なイメージがあり、主体性を持った日本のスポーツとして不適当である。また将来の普及発展の障害になりかねないというものである。表氏の説によると今の「軟式庭球」は明治27年にテニス(軟式)が初めて邦訳された時「庭球」と呼ばれた。それが硬式との区分けの必要から次第に軟球あるいは軟式と呼ばれるようになり今では定着している。つまり日本で生まれた独自のスポーツとしてゴムまりのテニスはもともと「庭球」だったのである。一方の硬式庭球であるが、これは近年のテニスブームで国際化が進展し「庭球」という用語では通用しなくなっており、そのため数年前に連盟の名称を「日本庭球教会」から「日本テニス協会」に変えている。一般的にも「テニス」であり「庭球」とは殆んど言わなくなってきている。この機会に我々が「軟式庭球」から軟式の2字を削除して「庭球」に戻ることは一つの有力な道であろう。ただし「軟式庭球」も国際化が進展しそこでの公用名称は「SOFT TENNIS」である。したがって名称変更はその点も併せて考える必要がある。読者の皆さんにも積極的なご意見をお寄せ願えれば幸いである。

結局「軟式庭球」の名称はあまり大きな論議を呼ばない中で「庭球」とする案は俎上に上がらず、すでに国際的に通用している「ソフトテニス」に決まり、平成4年に日本連盟の寄付行為(公益財団法人となった現在は定款)は「軟式庭球」から「ソフトテニス」に変更され以後必要なとき以外は「軟式庭球」とは呼ばなくなっている。

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□ シングルスについて

国際化の進展に伴いすぐに持ち上がった問題はソフトテニスではなぜシングルスを行わないのかという問題であった。硬式に慣れ親しんでいる各国の選手たちにとってはシングルスが第一でダブルスは付随的なものである。また国民性や文化の違いからかダブルスをしても日本のような「和」とかコンビネーションといったプレーは通用しがたくパートナーが争って球に触ろうとするプレーが多く見られた。日本ではダブルスが本来でシングルスの実施は無理と考えるのが常識であったからあまり意識していなかったことだが韓国や台湾でも幹部役員は国際普及を図るにはシングルスが必要と考えていたようで国際大会におけるシングルスの採用は必然でそのための競技規則の制定が急がれた。日本でも昭和33年から学生大会で採用されその当時はネットの両端を10センチ挙げて行われていたが、外国での試合に施設を変えるような前提は難しくいろいろ検討した末、コートを4分割して行う方法が採用された。しかしこの方法は結果として競技時間が長くかかるうえに競技性に乏しく、選手や観客にも不評で10年後の見直し時に種々試行したうえで見直され、今ではネットの高さをダブルスと変えず、またコートは硬式と同じにして不都合なく実施している。日本でのシングルス選手権大会は平成6年から実施されたが外国に比して取り組みが低調で、国際大会では韓国、中華台北や中国に苦杯を喫する要因になっている。最近になって強化委員会などのアピールで、もっとシングルスに力を入れるべきであるという機運が高まり、ここ2,3年で各年齢層の全日本大会に導入が進んでいる。その勢いも手伝って昨年(平成24年)のアジア選手権大会では韓国、中華台北などの強豪にシングルスで打ち勝ち、成果を挙げた。私は今後のソフトテニス普及振興の上でシングルスを盛り上げることは大いに必要と考えている。主な理由は国際化を進めるには不可欠であること、一般的な評価でもソフトテニスと同類のテニス、卓球、バトミントンなどいずれもシングルスが主であり、勝者は一人という評価はスポーツの世界では常識であること、更にはシングルスの練習はダブルス以上に個々のプレーヤーにとって競技力の向上に役立つと考えるからである。日本連盟の強化委員会でも最近はシングルスの重要性を認識して選手の育成にあたっている。ただシングルスの導入には抵抗も多い。大きな理由は練習コートや時間が不足してしまうこと、大会の開催が困難なこと、更にはダブルスに比べ技術的なプレーやコンビネーションづくりなど指導者にとつて魅力を掻き立てないこと、特に多くの部員を擁する中学や高校の部活動に向かないことなどがあげられる。このような国内状況の中でどのようにしてシングルをダブルス主体の中で共存させるかが今後の課題である。

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□ 東南アジアソフトテニスの状況報告

(機関誌平成14年12月号より)

2002年11月2日タイランド・プーケット会議開催
東南アジアソフトテニス連盟(SEASTF)は1993年にフィリピン(マニラ)で設立されて以来しばらく停滞していたが2002年6月に東南アジアソフトテニス選手権大会がマニラで開催され、再び盛り上がる機運となった。その後特にタイランドのカムトーン会長の意欲的な取り組みにより、この度タイランドオープンソフトテニス国際大会がプーケットで開催され、その大会に合わせて東南アジアソフトテニス連盟会議が行われた。この会議にはタイランドオープンに参加したタイランドをはじめインドネシア、マレーシア、フィリピンの4か国代表と日本からオブザーバーとして招かれたASTF事務総長西村と同理事の内藤享祐氏(慶應大昭和34年卒)が出席し、今後東南アジアのソフトテニスを更に発展させる意図で規約の全面改訂、会長・専務理事など新役員の選考、今後の活動計画などが審議され、熱心な討議の上いずれも円滑に決定された。

この会議で新会長に就任したカムトーン氏(タイランド連盟会長)はじめ加盟各国の努力により東南アジアのソフトテニスは東アジア地域に次ぐ盛んな状況である。特にタイランド、フィリピン、インドネシアのレベルは高く、日韓台は別格としてそれに続く中国、モンゴルとともに第2グループを形成している。なお2008年に会長がフィリピンソフトテニス連盟会長のタマヨ氏に受け継がれ、2012年に開催された東南アジア競技大会(SEA Games)にソフトテニスが始めて採用された。


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□ タイランド・ナショナルユースゲームソフトテニス競技を視察

(機関誌平成18年5月号より)

一昨年(2004年)12月、第5回アジアソフトテニス選手権大会を(チェンマイ市)を立派に開催していただいたタイランドソフトテニス連盟カムトーン会長から1年ぶりに連絡があり、今年(2006年)3月のタイランド・ナショナルユースゲームを是非視に来てほしいとのこと。タイランド連盟はカムトーン会長のもとヴィナイ専務理事、競技担当のピパ氏、総務担当のアピワン女史など優秀なスタッフがおり、これまでにも1996年の第3回アジア選手権大会(バンコク)、1997年のプレアジア競技大会(バンコク)、1998年のアジア競技大会(バンコク)と主要国際大会を開催するなどソフトテニスの国際普及に重要な役割を果たしている。日本からもタイランドには事前の打ち合わせや大会時に何度となく訪問し、その都度派遣メンバーや選手団がひとかたならぬお世話になっており、私自身カムトーン会長とは個人的に同年輩ということもあって、気心の知れた信頼のおける間柄である。用事の向きは①タイランドの日本でいえばインターハイと全国中学生大会を合わせたようなジュニア国内総合大会でソフトテニスが実施されるようになったので状況を視てほしい。②来年タイランドで行われる東南アジア競技大会(SEA Games)でソフトテニスが採用されるようオリンピック委員会に働きかけているので協力してほしい、との要請であったがさらに推測すれば旧交を温めようではないかとの意図もあると思いこちらからもこの機会に今年のアジア競技大会(カタール・ドーハ)、来年の世界選手権大会(韓国)への参加要請や東南アジア選手権大会の継続実施および今後の各国普及について意見交換したいとの要望を伝え3月25日から27日まで単身でタイランドを訪問することにした。また今回は日頃カムトーン会長の手助けをしているバンコク在住の木内慶子さん(さいたま市出身)が事前の連絡から滞在時の通訳などサポートしてくださったのでより効果的な訪問になったと感謝している。・・・
・・・(ナショナルユースゲーム視察)私がナショナルユースゲームを視察したのは最終日の個人戦各種別決勝戦(タイランドの国内大会は通常、国際大会と同様男女団体戦(ダブルス、シングルス、ダブルスの3対戦)および男女個人戦(ダブルス、シングルス)が行われる。)であったがジュニアNo1を競うだけあってそれぞれ白熱した展開であった。総じて技術的には以前に比べかなりレベルが上がったように感じ、個々にもフォアのストローク、ダブルスのコンビネーションなど向上が見られた。ただバックハンドストロークについては硬式的なグリップのため強打が少なくカットに頼る場面が多く、ハードコートではせっかくの素晴らしいラリーに水を差す局面もしばしばであった。男子ダブルスで優勝した後衛型のプレーヤーはラケット裏面を用いてのバックハンドストロークでかなりの強打を放っていたので、この選手などをモデルにすればグリップを替えなくてもソフトテニスに即したプレーヤーが育成できるのではないだろうか。また選手たちは各県の代表であり引率の指導者、同僚の選手たちが一生懸命声をかけ応援する様子は日本と変わらず、このまま数年たてばかなり充実した大会になると思われた。・・・

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□ ヨーロッパへの普及について

ヨーロッパへの普及活動は平成10年(1998年)にナガセケンコー取締役田辺理氏(慶應大昭和35年卒)がイタリア・ローマに軟式野球の関係で出張した折、名門ラツィオクラブのグロリオッソ副会長にソフトテニスを紹介したところ大変興味を持たれたことから始まった。以後田辺氏の絶大なるご尽力とナガセケンコーのご支援により普及活動が順調に進展した。しかしヨーロッパは基本的に硬式テニスの盛んな国々でありまたスポーツは国や学校ではなく民間クラブ組織で行われている。そのため活動は個々のクラブ単位のかたちで行われるので広範囲の普及は困難である。そうした中で我々は少しでもヨーロッパに普及の足掛かりをつけたいと考え、いろいろな協力者の力を借りながら積極的に取り組んだ。私は平成10年に普及活動のためローマを訪問して以来おおよそ10年間にわたり10回近くヨーロッパに赴いたが、その都度指導者や選手たちが協力してくれた。またナガセケンコーの田辺さんや内藤享佑氏(慶應大昭和34年卆)、ブタペストに駐在していた伊藤忠商事の玉木進氏(慶應大昭和48年卆 現日本連盟事務局次長)にはいつも現地におけるスケジュール手配や通訳などで大変ご尽力いただいた。また野口英一氏(現文大杉並高教師、ソフトテニス部監督 当時は日野市立日野二中、八王子市立椚田中教師)には再三にわたり生徒を引率してローマ、ブタペスト、スコットランドなどでジュニア指導と学校間の交流や相互のホームスティを実施するなど生徒や親たちの相互親睦交流をはかっていただいた。さらに自分の都合がつかない時は仲間の先生に働きかけ東京ばかりでなく神奈川、千葉などの生徒にもジュニア交流のためヨーロッパへの派遣をはかっていただいた。私が引率した選手たちはそれぞれ日本のトップ選手であり、天皇杯、皇后杯チャンピオンも数多く含まれる。特に記憶に残るのは平成11年、最初にローマに赴いた時の砂本葉子・宮地雄子選手(東芝姫路)、上沢恵理選手(ナガセケンコー)、平成平成17年にハンガリー、チェコ、オランダ、フランスなどを歴訪し、普及指導を行った時の中堀茂生・高川経生選手(NTT西日本広島)、玉泉春美・上嶋亜友美選手(東芝姫路)たちである。それらの選手は当時日本では最も輝いていた選手で私にとってもあこがれのスター選手たちである。それまで試合を観戦するばかりで話をしたこともなかった彼ら、彼女らと遠征期間を通し、親しく接し、素顔の人柄に触れ、益々ファン心理を掻き立てられた。選手たちの懇切、熱心な指導やデモンストレーションなどにより活動の成果も大きなものがあり。今でも記憶に残る楽しい時間であった。

ヨーロッパの普及活動状況について機関誌で報告した主な内容を以下に振り返ることとしたい。

「イタリア・ローマにソフトテニスの灯 デモンストレーションチーム派遣」
(機関誌平成11年8月号より)

イタリア・ローマで24競技を擁する名門クラブであるプリマヴェラ・ラツィオのグロリオッソ副会長にソフトテニスを紹介したところニュースポーツとして大きな関心を持ち、このスポーツをローマで広めようということになった。・・・一行はローマで初めてのソフトテニス普及に期待と不安をいだきながら、一方でソフトテニスの楽しさを伝えようと大会時とは違う普段着のリラックスした雰囲気でローマに向かった。・・・イタリアの人達は皆、明るく親切で選手たちも初対面とは思えないほど気楽にうちとけているように見受けた。・・・ローマでの活動はデモンストレーションとクラブのメンバーや硬式の選手たちへのソフトテニス実技指導が主で、終わった後はイタリアらしく夜中までの懇親会が続いた。行ったのは3日間にわたりキックオフクラブ、ランシニアクラブ、デヴィアラテニスクラブ、ラツィオクラブの4か所で内藤尚男氏(慶應大昭和34年卒)の丁寧なレッスンと解説で集まった人たちも熱心にプレーをしたり見学をしたりして有意義な時を過ごすことができた。・・・日本の選手たちは今回の訪問ではイタリアの人達との交流が何より大切だという自分たちの役割を十分判っており、どんな時でもまた言葉がうまく通じなくても明るく積極的に親善に努めてくれた。私は選手たちの姿勢に何よりもそれが自然な振る舞いであることに若い人たちへの心強さを感じ、将来ソフトテニスの国際化が進むのではないかとの期待と確信めいた実感を持つことができた。・・・

「ローマにおけるヨーロッパソフトテニス会議」
(機関誌平成13年12月号より)

平成10年のローマ普及を機に、他のヨーロッパ各国に対する普及の足掛かりをつかむべくナガセケンコー田辺氏の絶大な協力により活動を進めてきたが、イタリアを含めヨーロッパ8か国に今後期待し得るレベルの協力者が確保できたので別途進められていた佐賀県を中心とするレディスチームのローマとの親善大会計画に時期を合わせこれらのメンバーにローマに集まってもらい、各国における今後の普及、連盟の設立(イタリア、イギリスは設立済み)また近い将来におけるヨーロッパソフトテニス連盟の創立を図るため、ヨーロッパソフトテニス会議、デモンストレーション、クリニックなどを行った。会議は10月2日イタリア、ハンガリー、ドイツ、イングランド、スコットランド、スペインの代表により行われ、日本からは私の他、内藤享佑氏、田辺理氏が参加した。会議のまとめとして次の2点が合意された。
*ヨーロッパソフトテニス連盟の創設は時期尚早なのでその準備段階として委員会を立ち上げ今後の発展を期す。普及は当面ジュニア(中・高校生)を主な対象とする。
*来年2002年にローマでヨーロッパ各国に日本を加え「第1回インターナショナル
ジュニアソフトテニス交流大会」を開催する。・・・
ローマの普及を契機に3年間で今回ヨーロッパ全体の普及に足がかりを得られたことはかなりの成果と思われる。しかしここで何より大切なことは日本からの長期的な指導者の派遣である。少なくとも各国においてある程度のプレーヤーが育成されなければ組織づくりも進まないであろうし大会も開催できない。とりあえず来年の計画として合意された第1回インターナショナルジュニア交流大会を目標に1年間でなんとか各国のジュニア選手を育てたいものである。

「ハンガリー会長夫妻ソフトテニス視察・研修のために来日」
ハンガリーはヨーロッパ普及の当初からソフトテニスの普及に熱心でとりわけブタペスト在住のルカッチ夫妻とは玉木進氏がブタペストに駐在していたこともあって交流の密度が濃く、今でもヨーロッパの主要国であり、次期世界選手権大会の開催候補国でもあります。なお平成16年に始まったハンガリー国際ソフトテニス大会は国際連盟の公認のもと現在も継続して開催されている。以下にルカッチ夫妻がソフトテニス視察のため来日した時の様子を記します。

(機関誌平成15年1月号より)

平成14年度はヨーロッパ普及の一環としてソフトテニスに関心を持った各国から今後普及の要になるコーチの日本での研修を促進しているが今回は10月21日から約3週間ハンガリーからルカッチ夫妻が来日した。ルカッチ氏はハンガリー有数のテニスクラブを経営しているプロコーチであるが、ソフトテニスにも関心を持ち、自分たちのクラブを中心にハンガリーにおける普及を推進する意図を持って来日したものである。・・・奥様のマルタさんはルカッチを支えるブレーンでもあるが、母国語のほかに英語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語を流暢にこなす才媛である。・・・彼らの日本滞在も終わりに近い11月4日に日本連盟関係者との打ち合わせを行ったが、ハンガリーにおける今後の普及について主として次のことを申し合わせた。
*ハンガリーソフトテニス連盟をできるだけ早い時期に設立する。
*ジュニアを中心に、一般、シニア層も対象に普及を進める。
*継続的にソフトテニスを行えるよう環境をつくる。
*ヨーロッパ各国との交流を行う。
*第12回広島世界ソフトテニス選手権大会に参加する。
*日本としても種々の面でこれらに協力する。

「ヨーロッパ普及指導チーム派遣」
(機関誌平成17年3月号より)

日本ソフトテニス連盟は基本方針に沿って鋭意ソフトテニスの国際普及を水インしている。ソフトテニスの国際普及は1980年代の後半から本格的活動が開始された。当初の10年間程は主としてアジア地域の普及が促進され、その成果として1989年アジアソフトテニス連盟の設立を契機に加盟国(地域が増大、現在は役25か国(地域)を数えるに至った。また1990年北京アジア競技大会のオープン競技として国際総合大会に参加が実現し、その後1994年広島大会で正式種目に取り上げられ現在に至っている。また1997年からは東アジア競技大会でも正式種目に採用された。そうした中で近年はさらに飛躍すべくヨーロッパへの普及に力を注いでおり、徐々に成果を挙げつつある。ヨーロッパへの普及は1999年に指導派遣チームをイタリア・ローマに派遣したのを皮切りにその後さまざまなかたちで各国との交流を深め、その結果2003年の広島世界選手権大会にはイタリア、ハンガリー、スイス、チェコ、ドイツ、イングランドが参加し、国際化の新たなステップに入った。広島大会は数の上では30か国(地域)が参加し、従来にない盛況であった。しかしながらアジアの一部を除けば各国ともまだまだ未熟であり、特にヨーロッパは種がまかれたばかりの状態であって今後の発展や定着化は未知である。このような状況の中で今回の派遣が行われたのであるが、これまでの活動成果を助長するとともにオランダ、フランスに新たなきっかけを作り、やがてはヨーロッパ全域に足がかりをつける意味で極めて重要なタイミングと思われた。その面では中堀・高川ペア、玉泉・上嶋ペアという現在最高の男女選手の参加を得て、さらに途中からではあったが東芝姫路金冶監督も加わって、各地でデモンストレーションとクリニックが開催されたことは各国の反応も上々であり、我々の目標をしのぐ成果があったと思われる。・・・


派遣メンバー:

西村信寛(日本連盟副会長 国際連盟事務総長)
田辺 理(ナガセケンコー(株))
丹崎健一(日本連盟国際委員)
金冶義昭(東芝姫路)
中堀成生(NTT西日本広島)
高川経生(NTT西日本広島)
玉泉春美(東芝姫路)
上嶋亜友美(東芝姫路)

日程:

平成17年1月14日(金)~1月25日(火)

デモ&クリニック:

1月15日~16日 ハンガリー(ブタペスト)
1月18日~19日 チェコ(ブルノ)
1月20日~22日 オランダ(アムステルダム)
1月22日~24日 フランス(パリ)

ヨーロッパへの普及活動はアジア地域のそれとは異なり硬式テニスの本家ともいうべき地域で硬式テニスクラブへ働きかけて行うものであり、種々難しさがある。
我々の考えとしては硬式と対立する競技ではなく共存して欲しい競技として紹介している。特にボール、ラケットが軽く身体にやさしい、子供にも適した大衆スポーツであることを強調している。その面で各国の反応はおおむね良好で、関心を持ってソフトテニスを迎え入れてくれており、これまでの導入部分ではかなりの成果が挙がっていると確信している。しかもヨーロッパ全体が地続きでそれぞれの国が緊密な関係にあり、コミュニケーションが良いので我々の意図を超えて周辺諸国への広がりが早く普及に期待が持てる。しかしこれらの成果が今後より広範囲に定着し、競技人口が増えるかは予測しがたい状況である。ヨーロッパではアメリカ地域や東南アジアなども同様であるがスポーツイベントを運営する目的や意義はボランティアやレクリエーションではなくビジネスの要素が強い。このことにノウハウの未熟なソフトテニスがどう対応していけるかが世界レベルの普及のポイントであろう。今回訪問した各国の関係者は今後のソフトテニスの取り込みに関し、いろいろな検討や実践を行う動きになっている。またハンガリーやチェコはさらに一歩進んでヨーロッパ選手権、ISTF公認国際トーナメント、国際ジュニアトーナメントなどを2005年に開催予定である。我々もヨーロッパのソフトテニス普及を支援、協力し何とか定着化させたいと思う。そして今回の派遣がその契機になれば幸いである。

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□ 北米、カリブ、中米、南米などのソフトテニスについて

これらの地域におけるソフトテニスは日本から移住している熱心な方々によって支えられている。特にアメリカ合衆国、ドミニカ共和国、ブラジルは1974年に国際ソフトテニス連盟が設立された当初から各連盟(当時のアメリカはハワイ)が加盟しており以後現在に至るまで世界選手権大会には毎回参加している。アメリカ連盟は庄川進会長、ドミニカ共和国はメンデス日高会長、ブラジル連盟は野村専務理事ご夫妻である。残念ながらこれらの地域は日本から遠いこと、地域の各国間も遠距離のため交流がないことなどで普及が進まないのが現状である。またドミニカ共和国以外は国そのものが広大であり活動もロスやサンパウロの一部のみで行われているに過ぎない。アメリカの庄川会長は現在でもロスでの世界選手権大会開催を主張されているが現実には経費やフタッフなど日本に依存する面が多く、また参加国も見通しがつかないため難しい状況である。

ドミニカ共和国連盟はかなり前に近隣諸国のプエルトリコ、コスタリカ、ベネズエラとともに第1回カリブ大会を開催し、私もゲスト参加したが費用などの問題で以後続いていない。ブラジル連盟も国際大会の開催を切望していたが経費の見通しが立たず開催に至っていない。日本連盟はこれらの連盟を支援し、できる限りの便宜を図っているが、実際には用具の提供一つでも関税の問題で簡単ではない。その他カナダはやはり日本の方々により一時期ジュニアを中心に普及を図ったが今は立ち消えている。私はかつて南米とのかかわりの深い橋本貞夫氏とともに南米諸国の普及を目指し、コロンビア、ペルー、メキシコを訪問しソフトテニスの紹介をして廻ったが今のところいずれも成果を得ていない。今でも関係者による普及活動は続いており、いずれ実ることを期待したい。アフリカもかつて関係者の紹介で2,3の国に普及を図ったが政情不安もあってその他の地域以上に難しいと思われる。

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9. ソフトテニスの指導者像

ソフトテニスの指導者は広い意味で主に組織運営を行う役員と選手の指導強化やチームの監督・コーチに分けられるが両方を兼ねる者もいる。ここでは主に選手を対象にする指導者についてふれてみる。私自身は選手を対象にする指導者ではないと自覚している。かつて勤務する実業団チームや東京代表チームの監督をやむなく行ったことがあるが、成果が上げられなかった。また選手の指導にはあまり意欲も起こらなかった。長いこと東京連盟や日本連盟の役員を共にした斎藤孝弘氏は役員ではあったが基本的には選手の指導強化や監督としてチームの育成に強い意欲を持つ指導者である。母校の明治大では今なお監督を務めており、かつては東京の女子高を日本一に育てた実績もあり日本連盟にあっては主としてナショナルチームの強化に取り組んだ。その斎藤氏と指導者の資質について議論をしたことがあるが次のように力説していたことを覚えている。「指導者は選手の育成について強い自己主張と意志を持ち、一国一城の主でなければ勤まらない。したがって指導者はお互いに強く結びつくか対抗するかどちらかになる。」当時のナショナルチームは監督のいかんによって選手所属の指導者が反発することがよく起こって私ども役員は調整に苦慮することがしばしばであった。今でもナショナルチームの監督やコーチの選任には気を使うことが多い。
強い指導者にはおおむね二つのタイプがある。一つは選手たちの上に立って何事も従わせるタイプ。もう一つは選手と対等の立場で自主性を重んじるタイプである。もちろん多くの指導者がその両面を兼ね備えており、場面によって使い分けている。前者の要素が強すぎる監督は時として暴力問題を起こすことや、パワハラ、セクハラといった問題を起こすことがある。しかしどちらのタイプであっても強い指導者ほど常に選手たちと行動を共にし、お互いの信頼感を醸成したうえで、練習指導や試合でのアドバイスをしていることは間違いない。私も一度だけであるが会社の女子選手を大阪インドアで日本一に導いたことがある。その頃は私も選手をしており普段から練習を共にしていた。ただ練習時に彼女たちの向上心と努力を惜しまない気持ちを強く感じたので、できる限り練習相手になり、特に前衛に対してはマンツーマンのかたちで徹底して基本練習に付き合った。昭和41年の大阪インドで彼女たちは持てる最高の力と根性を発揮し、大方の予想を覆し優勝した。決勝戦は埼玉の安倍喜美枝・成田美和子組(川口市役所)で一進一退のファイナルゲームであった。私は自分のことは忘れて彼女たちと気持ちを共にし、決勝戦では観覧席の最前列から大声で声援し、彼女たちも目でうなずきながら応えてくれた。うれしさのあまり私たちは京都でもう一泊して祝杯を挙げたものである。連盟の役員になった後、私はこうしたことは負担しきれないと考え、たった一度の経験になった。強い指導者はこのようなことを毎日当然のように行っているのであろう。
私の尊敬する指導者の一人は文大杉並高の野口英一先生(昭和48年学芸大卒)である。野口さんとは彼が東京中体連の部長を務めた時に知り合った。彼は八王子に住んでいて当時は日野市立日野二中に勤務し同校を全日本中学生大会の学校対抗優勝に導いた実績を持っていた。私の家とはさほど遠くなかったので東京で会議や大会があるときなど彼は車で来ていたのでしばしば家まで送ってもらった。車の帰路でいろいろ話をしている中で彼は国際普及にも関心が強かったので当時始まりつつあったヨーロッパ普及に生徒を引率して何度か行ってもらったり、自分が行けない時は仲間の指導者に声をかけて行ってもらったりした。彼が中学生を引率して海外普及をするときは依頼により学校に赴き校長先生や保護者へ挨拶と説明をしたがその都度それらの方々の野口先生に対する深い信頼感を感じることができた。
何年かたって彼は定年を待たず中学教員(公務員)を辞任して、私立の文大杉並高に転職した。ソフトテニスに対する情熱がそうさせたに違いない。本人の言葉によると転任の直後、同校の部員が60人も増えたそうである。いかに中学校選手と保護者たちからの信頼が厚かったが判る。その後同校はめきめきと頭角を現し、昨年は同一校の選手編成により国体で優勝。今年は春の高校選抜で優勝した。インターハイは残念ながら団体、個人とも2位であったが10月の東京国体では2連覇を果たした。私は何度か同校の練習時に訪れ先生といろいろ打ち合わせを行なったり、外国からの選手、指導者の受け入れをお願いしたが、彼の指導は選手の自主性を前提にしている。選手たちに対する言葉を借りると、「心で勝つ」である。そして練習は間断なく進められるが選手たちの行動やプレーは真剣そのものであり、スピーディーである。彼が私と話している時でも練習はメニューに沿って途切れなく、キャプテンの指示で進行する。彼がいつどのようにしてそこまで訓練したのかは判らないが、選手たちの心までつかんでいることは間違いないと思う。彼は授業前に選手たちと一緒に朝の練習をするため毎朝6時には学校に行っているそうだ。そのため通勤用の乗用車と選手移動用のワゴン車と2台持って使い分けていた。本人に聞くと最近は学校近くに一軒家を借り選手たちと共に生活しているということであった。まかないをどうしているのか聞くと選手たちの分も自分が作っていますというのだから驚きである。彼の心は常に選手と共にある。彼が指導に当たって気を付けていることは「選手たちと行動を共にすること、選手たちの処遇に気を使うこと、校長はじめ他の教師や保護者の信頼を得ること」だそうである。彼の人柄は温厚であり、どうしてそのような強い意志を持続できるのか計り知れないが、私は野口先生を理想的なソフトテニス指導者の一人と思っている。実業団にせよ大学、高校、中学にせよ男性が女子チームの監督やコーチになり、トップクラスの実力を維持することはとても難しいことではないかと思う。異性の選手や保護者たちとの信頼関係を保ちながら厳しい練習を強い、満足のいく結果を出さねばならない。少し間違えばトラブルを惹起しかねないであろう。その面で40年以上も日本のトップチームを維持している東芝姫路の金冶義冶監督や関西の大学で記録的な優勝実績を成し遂げた神戸松蔭女子学院大学元監督の表孟宏氏は文句なしの名指導者である。そのほか女性ではあるが厳しい指導で東芝姫路と日本一を競い合い、先般勇退したナガセケンコーの大野美沙子氏。以前大野さんに監督としての感想を聞いたことがあるが、選手との言い争いは日常のことですと言っていた。国際大会で女子監督を務めてもらったとき、こんなことも言っていた。「初めての選手を監督するとき自分はこんな見方をします。化粧している子はダメ、ピアスやネックレスをしているのもダメ、遠征途上でかかとの高い靴を履いているのもダメ。そういう子がいた時は最初に明日からはやめなさい、やめない時はあなたを見限りますよと云います。たいがいの子は翌日はきちんとしてきます。」女性だからこその指導だと感服した。また大学トップの座を維持し、多くの名選子や指導者を排出し続けている日体大監督西田豊明氏、昭和30年以降昨年までに16回にわたりインターハイ団体優勝を成し遂げた広島女子商(現広島翔洋高)、初期の宮本行夫監督、後期の渡辺政治監督などが名指導者として思い浮かぶ。宮本氏は後に東京女子体大監督として学生の指導にあたり、晩年はアジアを中心とするソフトテニスの普及活動とアジア競技大会など国際大会へのソフトテニス導入に情熱を注ぎ実現に大きく貢献した。

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10. ソフトテニスの基本技術と戦法に関して

前述のとおり私は選手を対象とする指導者ではないと自覚している。経験的にも実績的にも、である。ただこれまで日本連盟役員としての立場からソフトテニスの基本技術や戦法などについて多くの書籍を読んだり、日本トップクラスの指導者と対話を重ねたりしてきたので一般論としてある程度理解しているつもりである。特に私が機関誌編集の担当をしていた時期に読者の最も期待する記事が「技術指導」であったことから何とか取り上げようといろいろ模索したことがある。しかし結局自分で書くほかないと考え、昭和54年から57年までそのことに取り組み、そのうち昭和56年4月から1年間毎月「軟式庭球の戦法」というタイトルで連載記事を執筆した。またその延長で昭和56年5月に発行された日本連盟の基本的な指導書である「新版軟式庭球教程」の内容執筆にかかわった。
そうした経験を踏まえ、その当時と現在の違いなどを考えながら今回もう一度ソフトテニスの技術と戦法についてふれてみることにしたい。

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(1)基本技術がすべての基本
(昭和56年5月発行「新版軟式教程」前文(西村寄稿)より)
「基本技術をマスターしよう」

どんなスポーツにも基本技術というものがあります。もちろん軟式庭球にも基本技術があります。基本技術とは何か。一言でいえばその言葉のとおりスポーツを行うのに最も基本となるやり方(方法)です。軟式庭球でいえばラケットの握り方からはじまり、グラウンドストローク、サービス、ボレーなど競技における各種のプレー、マッチ中のフォーメーション、などです。・・・テニスが上達するにはこの基本技術をまずマスターすることが最も重要であり、近道であります。・・・強くなるには種々の応用プレーを行うでしょうがすべて基本技術がベースになっています。基本なくして上達はあり得ないといっても過言ではないでしょう。これからテニスを始めようとする人も、更に上達しようと思う人も、選手として強くなろうと思っている人もすべて基本から出発すべきです。基本技術をマスターすることが何より大切です。またテニスを指導する場合についてもこの基本技術をいかに教えるかいかに身につけさせるか肝要です。・・・

現在日本ソフトテニス連盟が発行する教本では基本技術を次のように分類している。
サービス
  フラットサービス
  スライスサービス
  リバースサービス
カットサービス
レシーブ(グラウンドストロークの一種)
グラウンドストローク
  {打点}
  アンダーストローク
  サイドストローク
  トップストローク
  {球質}
  シュート打法
  ロビング打法
ボレー
  スタンダードボレー
  ハイボレー
  ローボレー
  ストップボレー
  スイングボレー
スマッシュ
  スタンダードスマッシュ
  ジャンプスマッシュ

これらはさらに細分化され、内容が説明されているがここでは省略する。また市販の解説書や指導者によって表現が違ったりすることがある。出来ればそれらを読み比べ内容の意義を習得してほしい。
余談になるが私は高校時代3年間を池田吉一氏と、大学時代4年間を糸川雅也氏と一環してペアを組むことができたことが自分のテニスに大きなプラスになったと考えている。
お互いに、性格の違いや日常行動の違いがあったが、テニスの練習については一致していたと思う。中でも前衛基本練習は両氏とも徹底して行ったし、私は後衛としていつでも一生懸命上げボールに専念した。前衛の基本練習をペアとして徹底することでパートナーの技量が上達すれば間違いなく試合で良い結果が出る。また後衛の立場では上げボールはストロークの基本であり、上げボールに上達することは後衛の技量の上達そのものだと考えている。長い間同じペアと前衛の基本練習と後衛の上げボール練習を繰り返したことが二人の精神的な結びつきやより良いコンビネーションづくりに大いに役立ったと今でも確信している。

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(2)ソフトテニスの戦法とその進化
私の現役当時と現在での最も大きな違いはプレーの内容が多彩になっていることとスピード感が格段に違うことではないかと思う。プレーの内容が多彩になった要因は一つには平成4年に抜本的に改訂された競技規則によりダブルスのプレーヤーに相互のサービスが規定されたこと、シングルスやミックスダブルスが日常行われるようになったことと考えられる。今一つは国際大会が頻繁に行われるようになり日本、韓国以外の会場ではハードコートであることと中華台北、中国などハードコートに有利な戦法であるカット中心の戦法と硬式テニスのダブルスにみられるような前陣での並行陣型に日本選手団が翻弄され続けたためナショナルチームはじめ日本のトップ選手たちがその対応を訓練するとともに自らもカットサービスや伝統的な雁行陣型に加えて二人のダブルスプレーヤーがポジションを変化させる陣型もとるようになりそのためには雁行陣における後衛もスマッシュやボレー(特にローボレーあるいはスイングボレー)が出来なければいけないし、前衛もネット際ばかりでなくコートの中盤でのプレーが出来なければならない、また後陣でのグラウンドストロークがしっかりと出来なければならないといった状況の変化と関連があると考えられる。
最近のソフトテニス大会は国内では砂入り人工芝コートが多く、ハードコートはほとんど使われないので雁行陣型が主であることに変わりないが並行陣も多くみられるようになった。並行陣型には大きく二つあり、一つは後陣(ベースライン後方に二人とも位置する。)今一つは前陣(コートの中盤に二人とも位置する。硬式テニスのダブルスで通常みられる陣型)である。雁行陣は後衛が主としてグラウンドストローク、前衛はボレーやスマッシュとそれぞれ技術を特化させて訓練することにより習得を深められることやそれぞれの持ち味を生かせること、更にはポジションの変化によるコンビネーションづくりなどの利点があるが、逆にプレーヤーの持ち味が限定されそれが弱みになることもある。並行陣は雁行陣に比べ単純な陣型といえるが前陣での並行陣型は二人ともにサービス、ボレー、スマッシュが自由にこなせなければミスが多くなるし、殆どの打球をノーバウンドでさばくための俊敏な反射神経と高度な技術を要する。現在日本のNo.1ペアと目される篠原秀典・小林幸司(日体桜友会・ミズノ)選手がこの陣型を取り、他を寄せ付けない情勢にあるがこの陣型はよほどのレベルでないとかえって相手に翻弄されてしまう。彼らに次ぐペアが現れないのは技術的に追いつけないためだと思われる。前陣による並行陣型をとる前の篠原選手は後衛としてグラウンドストロークに優れ、シングルスでも国内はもとより国際大会でも勝てる力を持っていた。同時に小技もうまくボールさばきは抜群であった。また小林選手は前衛の中ではグラウンドストローク、レシーブに抜きん出ており、スマッシュ、ボレーも強力で、ベースライン近くから強力なスマッシュを叩ける選手である。その二人が時間をかけて練習を重ねサービスをすべてアンダ―カットで行い、ただちに前に詰めて全面的に攻撃に出る戦法をとるようになった。ちなみにハードコートで育った中華台北の男子選手はほとんどこの陣型をとるし、韓国の男子選手も国際大会では負けまいとこの戦法をとっている。ソフトテニスの戦法としては勝負が極めて早くなること、戦法が単純でコンビネーションプレーもあまり見られないことで一般観客には評判が良くないが戦法としては最も高レベルと言わざるを得ない。同じ並行陣でも二人とも後方でグラウンドストローク主体にプレーする後陣は技術的にもコンビネーションとしても多彩とはいえず、如何に粘るかがポイントである。小学生、中学生特に女子ペアにこの陣型が多くみられるのも入りやすいからだと思われる。なお並行陣の場合には二人のプレーヤーの技術レベルがバランスよくないと一方のプレーヤーだけに相手の打球が集中するのでペアの作り方に配慮が必要である。
最近のソフトテニスにおけるもう一つの特徴はスピード感での増強であるが、競技スポーツの必然でもある。陸上でも水泳でも記録は年々更新され、体操の難易度も年ごとに高まっている。ゴルフの試合をテレビで見ていると信じられないような飛距離が出ている。プレーヤーの体力増進に加え、用具・用品の物理的改良もあろうかと思う。この状況では戦法も以前とは変わってきて当然であろう。後衛は配球と同時にスピードが要求される。前衛は早い動きをしないとボールに追いつけない。そのため強力な打法と単純な動きが目立つようになり、当然以前に比べトップの選手たちでもミスが目立つ。強力かつ単純なスピード感とそれでもミスをしない技術力がこれからの選手には要請されるのである。日本のナショナルチームおよびジュニアクラスのナショナルチームにおいてもコーチや選手が一丸になって体力強化と技術向上を図っているところである。また現在ではそれに加え体力面や心理面のトレーナーの存在が重要になりつつある。

 

このようなソフトテニスの戦法における変化を念頭におきつつ以下に私が機関誌に連載した「ソフトテニスの戦法」(雁行陣型を前提にしている。)からの抜粋と私が学生時代からご指導いただいた京都の呉啓三郎氏(同志社大、竜谷大監督、西日本学生コーチなど歴任)の「オールラウンド・プレー」に関する評論を記すこととしたい。なおこれらの文章はいずれもサービスの交替制が採用される前の旧競技規則による時期のものであることを申し添える。

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□ 「フォーメーション」(機関誌昭和56年5月号より)
  
雁行陣
斜めに並んで空を飛ぶ雁の姿になぞらえて軟式庭球のダブルスでプレーヤーの一人が後陣(ベースライン近く)、一人が前陣(ネット際)に斜めに位置して戦う形を雁行陣と云っている。この後陣に位置するプレーヤーを一般に後衛、前陣に位置するプレーヤーを前衛という。この陣形は現在の軟式庭球では最も通常で他の陣型は特殊な状況の場合を除いてほとんど見られない。なぜこの陣形が良いかは実際にゲームを行ってみればわかるが攻撃に、防御に最もバランスのとれた隙のないものだからである。

並行陣
めったに用いられないがゲーム展開の状況によってはこの陣形となる。並行陣は言葉のとおりパートナーがお互いにネットに並行に並んで位置するもので次の二つのパターンがある。

並行陣(前陣
この陣形は攻撃を主眼としており相手の打球が甘ければどちらかのプレーヤーがボレーやスマッシュをして一発で決めてしまおうとするものである。しかしネットの近くに出れば、ロビングで頭上を越される危険が多くなり、また後ろ過ぎれば足元を突かれることになってしまう。

並行陣(後陣)
二人ともいわゆる後衛のポジションに下がって位置するのがこの陣型である。かなり昔(明治時代)はこの陣型が主流だったようであるが今と比べればボール、ラケットなど用具もだいぶ違っていた時代のことである。この陣型は守備型でボールをつなげるだけなら効果があるが粘って相手のミスを誘うか、配球を工夫して相手の陣形を崩さない限り攻撃のチャンスは少ないからなかなか得点に結びつかない。

 

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□ 後衛はゲームの組み立て役(機関誌昭和56年7月号より)

雁行陣をもってする現代の軟庭ではゲームの展開の殆どは後衛のグラウンドストロークによる打ち合い(ラリー)をもとに行われる。したがってどんなゲームでも形勢の良し悪しは後衛同士の打ち合いの優劣が影響するといってよい。・・・ゲームに際して各プレーヤーの技量が同等程度であれば後方にあって打球する後衛のストロークでは多くの得点に結びつかない。得点を狙ってむやみに強打したり、危険な場所に打ち込んだりすればかえって自らのミスを増やしてしまうだろう。だから後衛は堅実にボールをつなげることをまず心がけ、次に前衛にとられないようにしながら一歩でも二歩でも相手後衛を走らせるようなコースにボールを散らせて相手陣形を揺さぶり、味方のチャンスを作るのが本来の役目である。味方後衛の作ってくれる有利なゲーム展開の中で前衛が一本でも多くの得点を挙げることが勝敗の大きな鍵となることは言うまでもない。・・・

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□ 前衛はポイント奪取の仕掛け人(機関誌昭和56年9月号より)

後衛のラリーを中心に行われるゲーム展開のなかで前衛はコートの前方に位置してボールの動きを全体としてとらえながら自らの出番をつくっていく。どんなゲームでもまず後衛のグラウンドストロークが傾勢の良し悪しに影響を与えるが、互角の状勢になった時ゲームの行方を決定的にするのは前衛の力が大きい。前衛の役割としては大きく二つの要素が考えられる。一つは決定打を放ってポイントをあげること、今一つはポジションやモーションを有効にとって相手プレーヤーをけん制し展開を有利に導くことである。
前衛は後衛に比べボールに触ることがかなり少ない。しかしその間何もしないで漫然とやり過ごしているようでは困る。プレーが行われている限り常に頭をめぐらし目でボールを追い身体を動かしてチャンスをうかがっていなければならない。しかもコートの前方に位置して相手の打球直後のボールを瞬時にノーバンドで抑えたり相手前衛のボレーやスマッシュをフォローしたりするのだからよほど素早い動作でなければ間に合わないだろう。これらのことから前衛には後衛とは異なる能力が要求されるのである。その中でも特徴的なのは鋭い判断力(直感力)と敏しょうな動き(瞬発力)である。

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□ 前・後衛のコンビネーション(機関誌昭和56年11月号より)

ダブルスのゲームは二人のパートナーの共同作業によって行われる。特に軟庭では前衛と後衛に分かれそれぞれ別々の役割を持って競技が行われるのが通常である。したがってコンビネーションの第一歩は前・後衛がそれぞれ自分の役割を着実に果たすことから始めなければならないだろう。後衛はグラウンドストロークでつまらないミスをおかさないことであり前衛は守備範囲をわきまえ身近にきたボールをボレー、スマッシュで正しく対応すること、そのうえである程度は動いて相手を攻撃、けん制することである。この基本的なプレーが普通にできなければお互いの信頼感も生まれないだろうし当然ゲームそのものの展開が不安定になって勝ち味がなくなってしまう。基本的なプレーにおいてお互いの信頼感を得るためにはパートナー同士の技術力に大きな差のないことも大切な要素である。パートナーを決める時はこのことも心がける必要がある。二人の共同作業をより密にして戦法面や精神面でプラスアルファの力を発揮できる状態を作り出すことがコンビネーションのより高度なレベルである。そのためにはまず普段の練習時から自分のパートナーの長所、短所など特徴をよく知り、そのうえで自分の長所を活かし、欠点を補うように心がけることが大切である。自分を活かし、自分のパートナーも活かすことが重要でどちらかが活きるために相手の良さを封じてはより良いコンビネーションとは言えないであろう。しかしゲーム中の個々の場面では作戦的にパートナーの一方を中心に進めることもある。例えば前衛の調子が良い時にそれをより積極的に活かすために後衛はつなぐボールを主体にゲームを進めるとか、逆に後衛のストロークに相手を圧する威力があるときは前衛が守りを中心にゲームを進めるとかがそれであるがそれらはその時々の状勢にもとづく作戦であってコンビネーションづくりの一つと評価されるだろう。当然のことであるが試合に勝つことは味方がいかに失点を少なくして得点をたくさんあげるかということである。

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□ パートナーとの信頼関係(機関誌57年1月号より)

前後衛のコンビネーションに関し精神面で重要なことはお互いのより良い信頼関係である。信頼感の乏しいコンビネーションではいかに技術力があったとしてもそれが十分に発揮されないであろう。つまり1プラス1が2以下になってしまう大きな要因である。パートナー同士の信頼関係はいろいろな要因で築かれるが、大切なことはそれを試合の中で戦法としてうまく活かすことである。ちょっとした掛け声やしぐさでお互いの意思を伝達し合うことがゲーム中には意外に大きな効果を上げることがある。より良い信頼関係を醸成するために心がけることを次に例示する。
日常時において
自分の力や特徴を知りパートナーのことも同じようによく知る。
自分たちのゲームのやり方、考えること、得意、不得意なことなどについてよく話し合う。
ゲーム中において
日常行っていることをそのまま出すように心がける。ゲームの時だけ特別のことができるわけではない。
掛け声やちょっとしたしぐさでお互いの気持ちや意向を伝えあう。
ルールによって許される範囲で戦法の打ち合わせや戦意高揚のための話し合いを行う。
パートナーの体のコンディションや調子の良し悪しを判断しそれをカバーするように心がける。

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□ ゲーム展開と作戦(機関誌昭和57年2月号より)

軟式庭球のマッチは通常7ゲームか9ゲームで行われる。他のスポーツに比し勝負が極端に短いことが軟式独特の一発勝負的なゲーム展開を生み出していることも事実であろう。だから軟式庭球ではよほどの力の差がない限りゲーム中に気を許すことなどできるものではない。ダブルフォールト1本、レシーブミス1本が勝敗を決めてしまうようなケースもしばしばあるのである。
そうした中でゲーム展開の状況や形勢を的確に見極めながら現在の状況をそのまま持続すべきか意識的に覆して別のペースに持っていくかなどを考えることは戦法として重要なことである。ゲームの進行状況や内容を冷静に掴み取り有利に展開させることはプレーヤーにとって難しいことに違いないが経験を積んだ一流選手ならば的確な判断が自然にできるように身についているのである。またプレーヤーだけでなくベンチコーチがそうした戦況について適切な判断をし、競技規則に則り、味方を有利に導くようなアドバイスをすることも効果があるだろう。・・・競り合いの中ではいずれが先にリードを奪ってマッチの主導権を握るかが勝敗をわける重要な鍵であるから力を出し切って戦う。7ゲームマッチであればゲームカウント2オール、9ゲームマッチであれば3オールあたりの時が最も苦しい。何とかして次のゲームをとることが勝利につながる。ファイナルゲームになれば一本一本が直接勝敗の行方に大きく影響する。最後の駆け引きや思い切った勝負のプレーも出てくる。逆に安易なミスは命とりになりかねない。それだけに精神的にも重圧がかかってくるから単に技術だけでなく気力が大切な要素になってくる。私は常々このような状態の時は守りより攻めだと考えている。自分の気持ちを奮い立たせるためでもあり、結果成功の確率も高いと思っているからである。

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□ 自分に克ち、相手に勝つ(機関誌昭和57年3月号より)

技術は一朝一夕に身につくものではない。長い間の練習や理論の習得、加えて実戦の経験を積み重ねて得られるものである。軟式庭球は運動量の激しい競技スポーツであるからそれだけにトレーニングによって体を鍛えることを忘れてはならない。
よく練習の時は強いが試合に出ると案外もろい選手がいる。選手である以上試合に勝つことが目標の筈である。それぞれの選手は技術も能力も違うのだから目標も異なるだろう。あまり高望みすればかえって萎縮することもあるからそれぞれの力に応じて一歩一歩登りつめるつもりで目標設定すべきである。指導者がいればそれを与えてくれるだろう。いざ試合に出たら常に意欲を持ってその目標に挑戦してほしい。中途半端な気持ちで勝っても負けてもいいというのでは期待する結果は得られない。最後の一本まで勝を見捨てず戦う意思を強固にしよう。たとえリードされていてもねばり強く挑戦してくる相手ほどいやなことはないのである。仮に健闘むなしくその試合は敗れたとはいえその気持ちがあればいずれ目標を達成するときがくることは間違いない。

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□ オールランド・プレーのすすめ

今までソフトテニスの基本技術や戦法について雁行陣型を念頭に置いた考えを述べてきた。また競技規則の改定や国際大会の発展などにより並行陣型も多く見られるようになったことも指摘した。ここで私が優れた指導者の一人として尊敬する故・呉啓三郎氏の「オールラウンド・プレー」に関する一文を紹介したい。呉氏は自らも「オールラウンド・プレー」を実践した名プレーヤーであるとともにテニスに関して造詣の深い論客でもあり論文も数多く発表している。呉氏は私が主になって再編集した日本連盟の指導教程を「非系統的な点、不合理な点も若干みられるので敢えて検討を加えた」として個々の内容について詳しく問題点を指摘し日本連盟に投稿された。私は軟式庭球の技術論があまり熟成されていないことまたそれを文書にできる指導者がほとんどいないことを憂いていたので良い機会だと思い本人の了解のもとで全文を機関誌に掲載させてもらった。内容はかなり詳しいものなのでここでは引用しないが基本的には当時の軟式庭球の指導理論が殆ど雁行陣型を前提に一部指導者の経験をもとにまとめられているのに対し、呉氏は持論である「オールラウンド・プレー」こそ、テニスの理想であるとの考えを主張されたものである。この違いについて私は呉氏とは文書の上でもまた直接にもいろいろ議論したが興味深かったのは彼が、私に対してもまた他の指導者に対しても意見を押し付けるといつた感覚ではなくフリーな発想を重視していたことで、選手の自発的な思考を求めていたことであった。ここでは彼の考えのさわりの部分のみ記述させてもらう。

(機関誌昭和57年6月号龍谷大学教授呉啓三郎氏執筆「テニスの研究」より)

軟式庭球を志す者はまずテニスの歴史的な変遷過程を知る必要がある。次に現状を認識するためにどのような人たちによって第一線級の軟式庭球が支えられており、しかもその内容はどのようなものであるかを熟知する必要がある。さらに進んで検討を加えより合理的、理想的な軟式庭球を追求し、その実現に向かって努力することが望ましい。筆者はそのような見地から自らの体験を踏まえつつ多角的に検討を加えた結果現在最も要求されることは“オールラウンド・プレー”であるという結論を得るに至っている。したがって技術の習得過程でも従来(現在でも多くは)行われているように素振りをやり直ちにグラウンドストロークに入っていく方法とか、ボレーはネット近くのプレーのみに集中して行うとかまたサービスのセカンドは消極的な守りのサービスをする等々のやり方には疑問を抱かざるを得ない。それらには雁行陣型を形成するためにのみ必要な技術を習得さすための勝利主義的(現時点のみではあるが)な矮小化された軟式庭球を強制している結果が見えるのである。軟式庭球の理想像は長い年月を費やして創りあげたところの雁行陣型の特徴を生かしながら並行陣型の利点をも充分とり入れそれを生かし、その他のコンビネーションプレーを数多くつくりあげることの可能な“オールラウンド・プレー”の出現である。そのような理念が普遍化することによって軟式庭球の内容は現在のもの以上に豊かになることは必定である。そのために当然のこととして基本的に習得しなければならない技術量は増大する。しかもそれらの技術水準をクリアーすることによりコート上のあらゆる場所から自由自在にボールを打ちこなすことが可能になって行動範囲が拡大され戦法、戦術も多様化し、高度なコンビネーションプレーが数多く生み出され、新しい多彩なテニスが展開されるのである。今回の「軟式庭球教程」についてその発刊に際しての御努力には敬意を表するがその内容については公式の技術書(教科書)として客観性に乏しく基本的理念に問題がある。なおかつ指導上の要領について系統性・合理性に欠けている点がみられる。雁行陣形のみを固執する発想・態度は選手達の建設的・創造的活動を阻害する大きな要因となり好ましくない。善意の問題提起として受け止められ、今後十分研究され、討議を深められて客観性のあるより合理的な改訂版を早急に編集される必要があろう。

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11. 終わりに

浦和高校の校訓「尚文昌武」は我々の世代でも難しい用語で辞書などを引いてもそのままは出てこないようであるが、浦高の百年誌に寄れば「訓読した場合は「文を尚(とうと)び武を昌(さか)んにす」と読める。用語としては原典を持たず日本独自の造語である可能性が高い。世にいわゆる「文武両道」という意味であることは言うまでもない。・・・現在では「勉強とスポーツを両立する。」という現代的意味としてよみがえっている。」と説明されている。慶應大学時代は創始者の「独立自尊の精神」という言葉がよく用いられた。また勤務先の社是は「まごころの奉仕」であった。いずれも私にとって気持ちの上でよくなじむ言葉である。
今の若い人たちがどのような環境のもとで勉強とスポーツを両立させているか実感を持つことはできないが私が通り過ぎた時代は少なくとも今より良い環境のもとで勉強に励み同時にスポーツに専念できたと思う。振り返って思うにソフトテニスに深く関わりを持ったとはいえそれ以外のことをおろそかにしたわけではない。自分なりに文武両道を全うしたと思っている。最も迷惑をかけたと思っている家族も、子供たちはそれぞれ独立した家庭を持ち円満に暮らしているし、今は妻と二人、悩み事もなく平穏に過ごしている。そして自分の人生においてソフトテニスはすべてのバックボーンつまり背骨のように支えてくれたと感じている。その支えがあってこそ頭や心臓や手足の動きが機能したような気がする。
勤務先の後輩の部員たちが仕事などで悩みを持った時はいつも「君たちにはソフトテニスがあるじゃないか」と励ましもした。今でも彼ら彼女らにコートなどで会うとつくづく良かったと感じる。また大学の部会合では現役部員や若手OBに対して常々「せっかくここまでやったのだから、どんな形であれ生涯ソフトテニスと付き合うように」と助言している。歳を重ねるほどその思いは強くなっている。私自身は自分の性格もあり、信条として神輿に乗るより担ぐ人、No.1よりNo.2を目指してきた。そしてある程度実現できたと考えている。しかし私も75歳になる。そろそろ神輿を担ごうとすることをやめて、好きなお酒を一杯やりながら家族たちや親しい仲間たちとお祭り自体を楽しみたいと思う。

平成25年6月18日初校
平成25年10月28日校了

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