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慶應義塾大学理工学部機械工学科 教授

竹村研治郎

 

1901年(明治34年)に慶應義塾体育会の一員として軟式庭球部が発足しました。その後、慶應義塾体育会の硬式庭球の採用により軟式庭球部が一旦体育会から消滅する時期があったものの、1949年(昭和24年)に慶應義塾体育会に再昇格し、1994年(平成6年)にソフトテニス部と改称して、現在に至っています。多くの先輩方のご努力、ご尽力の下、明治から令和に至る120年におよぶ歴史ある慶應義塾体育会ソフトテニス部の部長を2021年(令和3年)より務めさせていただくことに、身が引き締まる思いです。

皆様ご承知のように、2020年は大変な一年となりました。新型コロナウィルス感染症の流行で世界中が大混乱の中、慶應義塾も大きな制限を受けています。ソフトテニス部の部員は、学業と体育会活動の両面で大きな環境の変化を余儀なくされています。世界中の大学が新たな試みに挑戦し、おそらくコロナ後の世界は以前とは違ったものになるのではないかと思います。スポーツの練習方法も変化するかもしれません。制限の大きな日々が続きますが、体育会ソフトテニス部の活動を最大化できるよう、尽力していきたいと思います。

以前、サッカーのイングランドプレミアリーグの選手の記事を目にしました。同じプロサッカー選手でも1部、2部、3部のプレイヤーの違いについてのインタビュー記事でした。その中で語られていたことは、技術、体力に大きな差はないが、決定的な違いはプレーのアイディアだと。さまざまな意見があるとは思いますが、一瞬の局面で多くのアイディアを持ち、良い選択ができる能力がプレミア(1部)に居られる条件なのだそうです。競技は違えど、ソフトテニスもおそらくそうした一瞬のアイディア、判断力が重要な競技のように思いますし、ソフトテニスを通じて鍛えたこうした能力は、ひいては、人生の糧になるのではないかと思います。

慶應義塾体育会ソフトテニス部がそうした人間的成長の一助となるべく、活動環境の充実に努力したいと思います。

軟式庭球史概要

日本における庭球

はじめに 福沢先生が築地鉄砲洲に蘭学塾を開いたのが1858年。1868年(慶応4=明治元年)新銭座に移転し「慶応義塾」と命名。1871年三田に移転して、1890年に大学が発足、私立総合大学の先駆けとなったことは塾員社中のよく知るところです。その福沢先生は教育においてスポーツの重要性は欠かすことの出来ないものとして「先ず獣身を成し、然る後に人身を養う」と言われています。 塾に体育会が誕生したのが1892年。剣術・柔術・野球・端艇・弓術・操練・徒歩で武道色の濃いものでした。 一方テニスは、文部省が設けた教員養成の「体操伝習所」に1878年頃リーランド氏(米)が紹介したのが最初のようで勿論硬式でした。然しボールは輸入品で高く、遊戯用のゴム毬を代用して行われたのが軟式テニスの起源であり、その意味では日本の国技といえるかもしれません。

戦前の塾軟式庭球

1898(明治 31)年春、塾生の大塚千代蔵氏がクラスメートと三田薩摩原でテニス会を開いたと言うのが最初の記録で、塾のテニスの起源と言えます。
翌年に三田山上にテニスコートを造り、「清遊ローンテニス倶楽部」設立、東京外語学校と初の対外試合で辛勝、「時事新報」に報じられたそうです。「清遊ローンテニス倶楽部」で活動していた大塚千代造、宮本鉄太郎、菅篤三の各氏は、三田にテニスの足跡を残そう と、当時の鎌田塾長、福沢体育会会長に対して体育 会に加入させてもらうよう活動を行いました。      1901 (明治 34)年 10 月、両先生の賛同が得られて 「体育会庭球部」が創設されるとともに、三田山上 に正式のコートが造成されました。ソフトテニス部 では、この年を創部と定めています。

硬球への変更

 そうです。塾のテニスとは軟式庭球なのです。 「練習は不可能を可能にする」と言われた小泉先生も普通部の時15歳で入部、17歳の時には一番強かったと自著されています。(部報創刊号参照) 東京高等師範(→教育大→筑波大)、東京高等商業(→一橋大)は早くに創部し、磐石の強さを誇っていました。
1904年塾は高商に初勝利、前年創部の早稲田も高師に勝って「四大雄鎮」と称される時代が到来です。塾の市川選手が雁行陣を敷き注目を浴びたのもこの頃で、軟庭の前後衛シフトの元祖でしょう。また「軟式庭球規則」もこの四大雄鎮によって制定されました。 こうしてテニスが組織化し発展普及してくると国際化が頭をよぎって、欧米並みに硬球をと考えるようになります。
1911 (明治 44)年頃から、部員の間では硬球への変 更が論じられ、塾でも一旦は小泉先生の時期尚早意見に見送られますが1913 (大正 2)年 2 月 19 日、三田東洋軒における慰労会の席上で青木知四郎 氏から「硬球変更」の発議がされ、部員会で賛同を 得ました。これをもって塾体育会庭球部は硬球に移 行し、塾軟式庭球の歴史はいったんピリオドを打つ ことになりました。

軟式庭球クラブの結成

軟式愛好者は個々に巷のクラブに所属して活躍することになりますが、詳細の記録はあまりないようです。しかし、ラケットやボールも軟式用に開発されてよくなり、庶民的なスポーツとして軟式は広まりをとどめず、それを統括しようとする連盟が出来ては分裂をと繰り返します。 1931年塾では、新藤栄一、鎮目俊之、日向正 善、小野晴男の各氏らがが中心となって「慶應軟式庭球クラブ」を結成し、塾内対抗競技部(新種目団体)へ加盟申 請しました。また、同年に全日本学生軟式庭球連盟 に加入、翌年春に開催された大学・高等専門学校対 抗リーグ戦において初参加で初優勝し、秋以降も連 覇を成し遂げました。その後も塾軟式庭球クラブは、 小林・呉組が全国制覇するなど活躍を続けていましたが、その後支那事変が太平洋戦争に拡大し、1941(昭和 16)年に活動が 中断することとなりました。

軟庭部の復活 戦後の塾・軟式庭球部

敗戦で沈滞ムードの中、マッカーサーの占領政策の一つとしてスポーツ振興があって、軟庭でも翌年1946から「国体」「全日本学生」「マッカーサー杯」「天皇杯」と2・3年の間にたくさんの大会がスタートしました。 その頃塾軟庭クラブにはコートがなく、四ツ谷の医学部のコートをはじめ、あちこちのコートを借り歩いて練習していましたが、そのために唐草模様の大風呂敷にネットを包んで移動するのは下級生の仕事でした。制服・制帽のKEIOボーイが………想像して下さい。 当時の関東リーグは一部8校で、六大学と日大・中央でしたが、田中・小熊組を筆頭に好成績を収めていました。田中舒主将、山口龍男主務らは塾に体育会への昇格と専用コートの設置を粘り強く折衝していましたが、学校側の体育実技実施の意向とが相俟って遂に1949年4月に現役・OB待望の体育会昇格を果たし、翌年には現在の日吉記念館の場所にコート3 面(後に 5 面に拡大)が完成しました。 (河村知男部長・岩井三郎監督で1949年全日本大学対抗では準優勝しています。)
当時の学生スポーツは世間の大関心事で、東京六大学野球などはその最たるものでした。その六大学というものにも当時の学生は大変愛着を持っており、かねがね軟庭も六大学リーグを実現したいと思っていましたが、1952年塾の主導で「東京六大学軟式庭球連盟」を結成。第1回はとりあえず日吉で開催しましたが、第2回以降は日比谷公園コートで挙行するようになりました。 この年、豊田隆郎主務の尽力で塾軟庭のOB会である「三田軟式庭球倶楽部」が結成され、時の長老倉橋富治氏を会長、岩井三郎監督を理事長兼任でのスタートでした。現在、塾の数ある体育会OB会にあって最も優れた会に成長していると考えます。 1950年秋の関東リーグ塾は1部の5位でした。その年入替戦は1部下位2校と2部上位2校で行うことになっていましたが、連盟の横暴と連絡不十分を理由にボイコットしたため歴史上初めて2部に転落しました。当初は次の入替戦で戻ればいいくらいの軽い気持ちでしたが、その壁の厚さは想像を絶するもので長い2部生活を余儀なくされます。その苛立たしさ、不甲斐なさはその後多くの指導者、現役が味わうことになります。やっと1部に返り咲いたのは1957春で、第2期黄金時代を築いた越前・大岩・近藤・山崎・内藤兄弟・半田・糸川・西村・村井の精鋭で、彼等の多くは今も塾の部にとどまらず日本連盟にも大きく関与し貢献し続けています。 これからの4年間は団体・個人ともに各競技に目覚しい戦績を残しますが詳しくは部史をご覧頂くとし、特筆すべきは、1958年内藤尚男選手の東日本学生シングルスと第1回全日本学生シングルスの2冠優勝であり、『優勝』という輝かしい二文字は、軟式庭球部体育会昇格後初めてで唯一の記録です。時あたかも塾が100歳の記念すべき年でした。 1959年には下田コートの脇に待望の合宿所がOBと現役父兄の寄付、施工者である岩井二郎氏の尽力で落成し、部員はもとより部活動、クラブ運営にも大いに貢献することになりました。
その後、平成18年には港北区下田本町にある総合グランドの一角に夜間照明が完備され人工芝で整備された専用テニスコート4面を持ち 留学生棟と併設された体育会各部施設・下田学生寮の中に拠点を置き 活動しています。