西暦 | 和暦 | 事 暦(敬称略) |
1858 | 安政5 | 福沢諭吉が築地鉄砲洲に蘭学の一小家塾を創始(後、英学塾に転向) |
1868 | 慶応4 | 芝新銭座に移転し、慶應義塾と命名、近代私学として新発足(一種の法人形態で福沢先生が社頭) |
1871 | 明治4 | 三田に移転 |
1874 | 明治7 | 幼稚舎設立 |
1875 | 明治8 | 三田演説館竣工 |
1880 | 明治13 | リーランド(米)が文部省が設けた体育教員養成の体操伝習所(後、東京高等師範に付属)にテニスを紹介(硬式) |
(テニス伝来については諸説あり明確でないが明治10年代前半と思える) | ||
「慶應義塾維持法案」を発表 | ||
1881 | 明治14 | 「慶應義塾仮憲法」制定 | 塾長:浜野定四郎 |
1883 | 明治16 | F・W・ストレンジ著『アウトドアゲームズ』(テニスも含む)東京にて出版 |
坪井玄道、体操伝道所へ赴任 | ||
1884 | 明治17 | 坪井玄道、体操伝道所でゴム球を使用してローンテニスの手ほどきをする |
硬球ボールは消耗のわりに輸入品で高価なためゴム球が代用され、日本流のテニス軟式庭球が発祥する | ||
(日本の遊戯用ゴム毬は品質が悪く、ドイツ製の遊戯ボールが使われた模様) | ||
1885 | 明治18 | 下村泰大著『西洋戸外遊戯法』、坪井玄道著『戸外遊戯法』が出版され、テニスなどのスポーツを紹介 |
このころ塾生達の間でペンの徽章をつけ始める | ||
1887 | 明治20 | 東京電灯会社、初めて東京に点灯 |
塾長:小泉信吉 | ||
1888 | 明治21 | 東京高等師範(教育→筑波)に庭球部創設 |
1889 | 明治22 | 大日本帝国憲法発布 |
仮憲法に代え「慶應義塾規約」制定 | ||
1890 | 明治23 | 坪井玄道三田土護謨会社にテニス用ゴム球の製造を依頼 |
大学発足、私立総合大学の先駆け。文学・理財(経済)・法律の3科。塾長:小幡篤次郎 | ||
1892 | 明治25 | 三田土護謨会社、本所にゴム製造会社を創立 |
体育会創設。剣術・柔術・野球・端艇・弓術・操練(1899廃止)・徒歩(1895廃絶) | ||
1894 | 明治27 | 国際オリンピック委員会(IOC)設立 |
日清戦争勃発(~1895) | ||
1895 | 明治28 | 東京高等商業(一橋)庭球部創設 |
1896 | 明治29 | 正岡子規、随筆『松蘿玉液』でテニス紹介 |
1897 | 明治30 | 早稲田:テニスを含む7種目で体育部設置 |
1898 | 明治31 | 高師対高商「第1回庭球大会」開催、高師が勝利 |
学生改革し一貫教育制度樹立(大学科5年、普通学科5年、幼稚舎6年)大学科に政治学部増設 | ||
塾長:鎌田栄吉 | ||
大塚千代造がクラスメートを集め、三田薩摩原でテニス会を開く。塾のテニスの起源 | ||
1899 | 明治32 | 高師対高商「第2回庭球大会」開催、高商が勝利。東京・大阪間長距離電話開通 |
私学初の留学生派遣 | ||
三田山上にテニスコートを造る(6円79銭)。清遊ローンテニス倶楽部設立(6月23日) | ||
東京外国語学校と初の対外試合…辛勝。「時事新報」に記事。塾のテニスの初報道 | ||
1900 | 明治33 | 軟式庭球ボールの完成品に近いものが作られる(三田土護謨ほか数社) |
1901 | 明治34 | 福沢先生死去(享年68歳、法名:大観院独立自尊居士) |
「体育会庭球部」を創設、三田山上に正式のコート造成。 | ||
三田で第2回外語学校戦勝利。塾生のテニス熱煽る。初の東京高等商業戦、敗戦。 | ||
1902 | 明治35 | 東京高師ローンテニス部、指導書『ローンテニス』(ゴム球のテニス)を編集。高師日本初の関西遠征 |
小泉信三、15歳で(普通部)入部。(当時は普通部も大学と一緒に活動していた17歳で最強と自著) | ||
第1回東京高等師範戦、敗戦。 | ||
1903 | 明治36 | 早稲田に庭球部創設 |
第1回早慶野球試合開催 | ||
塾の市川選手が雁行陣を敷き、前衛陣形の元となる | ||
関西遠征、全勝 | ||
1904 | 明治37 | これまで 高師、高商の独壇場だったが、ここから塾、早稲田との4大雄鎮と称されるようになる |
東京高等師範、東京高等商業、塾、早稲田の4校により、「軟式庭球規則」が制定される | ||
(それまでコートやボールの大きさも規定されておらず、その後逐次改正がなされて全国に波及) | ||
日露戦争勃発(~1905) | ||
塾課制定 | ||
塾が東京高等商業に初勝利。早稲田も東京高等師範に初勝利 | ||
1906 | 明治39 | 馬場龜一がゴム球製造特許取得。日本護謨毬が製造。最初の女子テニス公開試合(大阪堂島女学校) |
大学院設置 | ||
野球早慶戦の紛糾が原因で全ての早慶戦は中止となる | ||
1907 | 明治40 | 早稲田「最新庭球術」を出版 |
創立50周年 | ||
1908 | 明治41 | 三田土護謨も特許取得。品質のよいM印は一躍シェアを広めた |
1909 | 明治42 | 明治、対外的に台頭する |
1911 | 明治44 | テニスの普及とともに国際化思考が高まり、塾でも硬式への移行が論じられ始める |
1913 | 大正2 | 塾体育会庭球部は硬式を採用し、軟式愛好者は個人でクラブに所属し対外試合も個人の資格で出場した |
1919 | 大正8 | 日本にふさわしいルールが完成。軟式庭球の基礎が固まる |
1920 | 大正9 | 各大学硬式テニスへ転向 |
1922 | 大正11 | 「東京軟球協会」設立 |
1923 | 大正12 | 「第1回全日本選手権大会」開催 |
1924 | 大正13 | 「東京軟球協会」を「日本軟球協会」と改称 |
1925 | 大正14 | 軟式庭球規則大改正。(「神宮ルール」の制定) |
前年始まった「神宮大会」に軟庭種目が加わる | ||
1926 | 大正15 | 「全日本軟式庭球連盟」が設立され、「日本軟球協会」と対立(2本立ての軟式庭球規則) |
1928 | 昭和3 | 対立する両者が統合し、「日本軟球連盟」が設立 |
「関東学生軟式庭球連盟」設立 | ||
1931 | 昭和6 | 新藤栄一・鎮目俊之・日向正善・小野晴男・若林孝三郎らにより軟式庭球クラブ結成。 |
塾内競技部として認められ、学連に加入し | ||
1932 | 昭和7 | 塾、東京学生リーグに初出場。早・立・明・帝・日等を降して優勝(その後3年連続制覇) |
連盟再び内紛し、同じ名称の「日本軟球連盟」が別に設立 | ||
1933 | 昭和8 | 岩井三郎が早・立・明の実力者と協議し、退廃していた学連から脱退、「学生軟式庭球連盟」を結成 |
(現 日本学連の母体) (部報17号「学連想説について」) | ||
対立していた連盟が統一し「日本軟式庭球連盟」となる(今日の日本連盟のスタート) | ||
1934 | 昭和9 | 「第1回伊勢神宮大会」(軟庭のみの総合大会)開催 |
1935 | 昭和10 | 連盟、「日本庭球連盟」と改称 |
1936 | 昭和11 | 「日本学生軟式庭球連盟」結成。 糸川欣也会長就任 |
1937 | 昭和12 | 日中戦争(支那事変)勃発、1941年太平洋戦争(第2次世界大戦)に拡大(~1945敗戦) |
1938 | 昭和13 | 昭和13 関東学生リーグ戦優勝 |
小林(珍)・呉組:全日本学生選手権優勝 | ||
1939 | 昭和14 | 連盟、大日本体育協会へ加盟し、「日本軟式庭球連盟」と改称 |
1945 | 昭和20 | 太平洋戦争(第2次世界大戦)終結(敗戦) |
三田土護謨が昭和護謨と対等合併 | ||
1946 | 昭和21 | 「第1回国民体育大会」(京都)「第1回全日本高等学校選手権大会」(東京)開催 |
「第1回全日本学生選手権大会」(京都)開催 | ||
1947 | 昭和22 | 「第1回マッカーサー元帥杯大会(全国都市対抗)」開催 |
「軟式庭球新規則」制定 | ||
1948 | 昭和23 | 「第1回天皇杯・全日本選手権大会」開催 |
1949 | 昭和24 | 長谷川利郎・田中舒・山口龍男らの塾への折衝と、学校側の体育実技実施の事情が相俟って軟式庭球部 として体育会28番目の部に昇格。河村知男部長・岩井三郎監督・田中舒主将 |
国体大学の部(全日本大学対抗戦)準優勝 | ||
1950 | 昭和25 | 日吉に待望のコート3面が完成。(現 日吉記念館のところ。崖の上ですこぶる風通しがよかった) |
秋の関東リーグで学連の連絡不十分を理由に入替戦を棄権し、はじめて2部転落 | ||
1951 | 昭和26 | 「関西六大学軟式庭球連盟」創設 |
1952 | 昭和27 | 塾の主導で明・立・東・早・法と「東京六大学軟式庭球連盟」結成。初代理事長 井上眞治(塾) |
春秋リーグ戦を挙行(第1回日吉)、第2回から日比谷公園コートをホームコートとして開催 | ||
第1回 同志社との定期戦京都で開催。敗戦 | ||
豊田隆郎の尽力でOB会 [三田軟式庭球倶楽部]を結成。倉橋富治会長・岩井三郎理事長 | ||
関根全日本選抜東西対抗出場 | ||
1953 | 昭和28 | 「慶應義塾軟式庭球部部報」創刊 (編集:豊田隆郎、伊藤日出夫、岡本守弘、栄谷嘉恭) |
1955 | 昭和30 | 「第1回全日本インドア選手権大会」開催(大阪) |
1956 | 昭和31 | 「第1回アジア大会」開催(台北市) |
女子部が活動開始、第1回六大学リーグ戦に参加 | ||
1957 | 昭和32 | 2月日吉記念館建設に伴いコートが閉鎖。夏に下田の現コート4面が完成。内藤主将宣誓。 |
慶同戦、6年目に内藤・越前組の奮闘により初勝利 | ||
関東学生リーグ戦一部に昇格 | ||
関東学生新進大会 半田・糸川 準優勝 | ||
1958 | 昭和33 | 日吉下田コート4面が完成。 |
「第1回日本学生シングルス選手権大会」開催(神戸)この記念すべき第1回大会に、内藤尚男選手が優勝 | ||
塾女子、関東学生リーグ戦 初出場 4部3位 | ||
東京六大学連盟、総理大臣杯獲得。6代理事長 佐藤順陽(塾)の尽力による | ||
1959 | 昭和34 | 下田コート脇にOBと現役父兄の寄付によって合宿所(初代)落成。 |
全日本大学対抗(会津若松)で西村・糸川、村井・水内、岡井・古山らの健闘で準優勝 | ||
東日本学生で、村井・水内組が準優勝 | ||
西村・糸川組 東日本一般 3位、関東学生 3位 | ||
全日本シングルス、西村 3位 | ||
西村・村井・水内 前日本学生選抜東西対抗出場 | ||
1960 | 昭和35 | 東日本一般で、西村・糸川組 2年連続3位入賞 |
東日本学生で、団体 3位、個人 西村・糸川 準優勝、シングルス 岡井 3位 | ||
一般の東西対抗に、西村選手日大OBの鳥井選手と組み獅子奮迅の活躍で日没引き分けに持ち込む | ||
西村・糸川組、塾の初全日本インドア選手権出場 | ||
1961 | 昭和36 | 関東リーグ(春・男子)2部へ降格 |
東日本学生 シングルス 岡井 3位 | ||
全日本学生 3位 | ||
台湾大学軟式網球隊と国際親善試合 ③-2で辛勝 | ||
関東リーグ(秋・女子)創部以来の3部昇格 | ||
1962 | 昭和37 | 関東リーグ(春・男子)1部復帰 |
〃 (〃・女子)3部優勝で入替戦に臨むも、3部残留 | ||
〃 (秋・男子)2部へ降格 | ||
1963 | 昭和38 | 関東リーグ(春・女子)4部へ降格 |
1964 | 昭和39 | 岩井三郎監督勇退。越前真生監督就任するも、転勤のため糸川雅也監督に交代 |
関東リーグ(春・男子)1部復帰 | ||
東日本学生 個人 中西・青山 3位 | ||
関東リーグ(秋・女子)5部へ降格 | ||
関東学生新進大会 石田・大久保 準優勝 | ||
1965 | 昭和40 | 関東リーグ(春・女子)6部へ降格 |
東日本学生 3位 | ||
関東リーグ(秋・女子)7部へ降格 | ||
1966 | 昭和41 | 関東リーグ(春・男子)2部へ降格 |
東日本学生 準優勝、個人 中西・大久保 準優勝 | ||
全日本学生 シングルス 中西 3位 | ||
1967 | 昭和42 | 東京六大学(春・女子)リーグ全勝で創部以来の初優勝を飾る |
以後、30周年の1978年までの24シーズンに10回優勝する | ||
大久保勉選手、芝浦工大白戸選手とのペアで天皇杯準優勝 | ||
大久保勉選手、立教OB亀田選手と組み、アジア大会予選を通過、9月ソウルにおける | ||
アジア大会での日本団体優勝の原動力となる | ||
「第1回全日本社会人対学生大会」開催(名古屋) | ||
関東リーグ(秋・女子)6部昇格 | ||
新設された東京クラブリーグに三田軟式庭球倶楽部が参加 | ||
1968 | 昭和43 | 関東学生新進大会 石田・高田 3位 |
1969 | 昭和44 | 体育会昇格20周年記念式典開催(丸ビル精養軒) |
体育会昇格以来20年間勤められた河村知男部長が引退、堀江湛教授(法)が部長就任された | ||
1970 | 昭和45 | 関東学生 シングルス 石田 準優勝 |
東日本学生 団体:3位、シングルス:伊地知 3位 | ||
1971 | 昭和46 | 「第1回全国中学校選手権大会」開催(東京) |
三田軟式庭球倶楽部 倉橋富治会長が勇退、後任に 岩井三郎会長、豊田隆郎理事長が就任 | ||
1972 | 昭和47 | 東日本学生 シングルス 中村 3位 |
1973 | 昭和48 | 「第1回全国社会人選手権大会」開催(土浦) |
1974 | 昭和49 | 連盟、財団法人「日本軟式庭球連盟」となり法人化 |
1975 | 昭和50 | 「第1回世界大会」日本主催で開催(ハワイ) |
「第1回高等学校選抜大会」開催(京都) | ||
1977 | 昭和52 | 堀江部長が学務度多忙のため退任。後任に佐野勝男先生(文)が就任 |
1979 | 昭和54 | 体育会昇格 30 周年記念式典開催(銀座三越) |
1980 | 昭和55 | 女子部:清水比佐子選手が六大学選手権3連覇 |
1982 | 昭和57 | 平田・桑野組、東京六大学選手権優勝 |
1984 | 昭和59 | 全日本大学対抗戦第 3 位 |
1987 | 昭和62 | 東京六大学リーグ戦初優勝 |
1992 | 平成4 | 体育会昇格 40 周年記念式典開催。クラブハウス(2代目)完成 |
1994 | 平成6 | 体育会ソフトテニス部に改称(旧名:軟式庭球部) |
1998 | 平成10 | 砂入り人工芝コート 2 面・夜間照明設備を整備 |
1999 | 平成11 | 体育会昇格 50 周年記念式典開催。50 周年記念誌発刊 |
2006 | 平成18 | 下田学生寮(現クラブハウス)完成 |
2008 | 平成20 | 第1回桜フェ スタ開催 |
2009 | 平成21 | 60周年記念祝賀会を開催 |
2010 | 平成22 | 赤井宏司氏が総監督に就任 |
テニスコートの改修及び周辺環境整備事業が完了 | ||
角田光央さん(法 3 年)がソフトテニス国際親善活動でドイツを訪問 | ||
2部・3部入れ替え戦:男子部勝利し 2 部復帰 | ||
第1回東京六大学マスターズリーグが開催 | ||
2011 | 平成23 | 2部・3部入れ替え戦:女子部勝利し 2 部復帰 |
東日本学生大学対抗戦:女子部ベスト 8 | ||
2部・3部入れ替え戦:男子部敗退で 3 部降格 | ||
2012 | 平成24 | 杉谷藍さん(理工 4 年)が慶應義塾「藤原賞」を受賞 |
大久保勉氏が会長に、高橋浩治氏が理事長に就任 | ||
六大学選手権(女子):田中・船津組が第 3 位 | ||
東日本学生大学対抗戦:女子部第 3 位 | ||
澤田達男教授が部長に就任 | ||
1部・2部入れ替え戦:女子部勝利 創部初の1部昇格 | ||
2013 | 平成25 | 部員 4 名がドイツ・ソフトテニスオープンに出場 |
白子カップ:女子部準優勝 | ||
蔵王カップ:男子部優勝、女子部第3位 | ||
2014 | 平成26 | 2部・3部入れ替え戦:男子部勝利し 2 部復帰 |
東日本学生選手権:白石・浜高組が第3位 | ||
全日本学生大学対抗:男子部第3位 | ||
火の国カップ:女子部第3位 | ||
部員7名が塾長招待会に参加 | ||
2015 | 平成27 | 全日本学生大学対抗:男子部第 3 位、女子部ベスト 8 |
全日本学生シングルス:伊藤幹選手第 3 位 | ||
東京六大学秋季リーグ:男子部準優勝 | ||
1部・2部入れ替え戦:女子部勝利し 1 部復帰 | ||
2016 | 平成28 | 高橋浩治氏が会長に、久米修氏が理事長に就任 |
白子カップ:女子部準優勝 | ||
北九州・下関カップ:男子部準優勝 | ||
全日本学生シングルス(女子):大久保京香選手第 3 位 | ||
夜間照明の増設工事が完了 | ||
東京六大学秋季リーグ:男子部準優勝 | ||
2017 | 平成29 | 関東学生選手権:伊藤・野口組第 3 位 |
東日本学生大学対抗:男子部ベスト 8 | ||
東日本学生シングルス(女子)大久保京香選手第 3 位 | ||
全日本学生大学対抗:男子部ベスト 8 | ||
全日本学生シングルス:伊藤幹選手が第 3 位 | ||
1部・2部入れ替え戦:女子部敗退で 2 部降格 | ||
2018 | 平成30 | 関東学生シングルス:伊藤幹選手第 3 位 |
東日本学生大学対抗:男子部ベスト 8 | ||
東日本学生シングルス:小田島俊介選手第 3 位 | ||
白子カップ:女子部準優勝、男子部第 3 位 | ||
備前カップ:女子部優勝、男子部第 3 位 | ||
2019 | 令和元 | 関東一般シングルス:小田島俊介選手準優勝 |
1部・2部入れ替え戦:女子部勝利し 1 部復帰 | ||
体育会昇格 70 年祝賀会を開催 | ||
2020 | 令和2 | 新型コロナウィルス感染症拡大防止対策の為「緊急事態宣言」発令 |
大学での対面授業は無くなりオンライン授業となり、部活動も自粛となる | ||
2021 | 令和3 | 澤田部長の退任に伴い 竹村研治郎・理工学部 機械工学科 教授が部長に就任 |