慶応義塾體育會ソフトテニス部

   
『財界』2018年1月30日号「ゆかいな仲間」
  『早慶軟庭球友会』  
  回顧 1959年8月2日(日) 会津若松市  
「昭和34年文部大臣杯 軟式庭球全日本大学対抗選手権大会決勝戦」
早稲田大学 3   対 1 慶應義塾大学  

一次戦


二次戦

   斉藤・太田 5
城・小久江 5
有馬・内山 4
斉藤・太田 5





0 村井・水内
0 西村・糸川
5 岡井・古山
0 岡井・古山

写真のお名前等はこちらから⇔        2017年11月11日(土) 慶應義塾大学ソフトテニス部下田テニスコート             撮影 愛甲武司


勝戦に圧勝した早稲田チームも試合前には極度の緊張を強いられた。格上チームを下して破竹の勢いの慶應(2年・3年チーム)を直視した早稲田(4年生主体)の城、斉藤、有馬3選手は「やられるかもしれない」と警戒心を強めた。「油断」を絶った「王者」に敵はなかった。監督15年を務めた糸川選手が「早稲田は一枚上手だった」と称える。「グッド・ルーザー」(good loser立派な敗者)である。
前衛・後衛の分業体制で「匠のテニス」を目指し切磋琢磨した選手たちはサラリーマンとして20世紀、日本の高度成長経済を担って奮闘。下級生の岡井選手は経営トップとして21世紀も活躍した。それにしても「早慶戦」を巡る侃々諤々はなぜか。格別な存在なのだ。
慶應義塾の福澤諭吉(1835〜19001)と早稲田の大隈重信(1838〜1922)。二人の大学創立者は良きライバルとして切磋琢磨し、厚い友情を築き困難に立ち向かった。近代日本を切り開いたキーワード、英語の「COMPETITION」を「競争」と日本語に訳した福澤が自らその意味を問うた相手こそ大隈であった。その真の意味を後輩たちは「早慶戦」を通じて連綿と実証し続けているわけである。
青少年時代に福澤先生から親しく薫陶を受けた小泉信三(元塾長1888〜1966)も慶應義塾の軟式庭球・代表選手として早慶戦を戦った。圧巻『日本のテニス』を著した早稲田の針重敬喜(1885〜1952)は早慶戦で小泉選手に敗れたが、「小泉の剛球」を称えた。
慶應の西村選手は「日韓台のアジア選手権大会」で日本代表に選ばれ実力を高め、日本オリジナルの「匠のテニス」を極めた。後年(1993年)、自らがリーダーとして伝統ある「軟式庭球」を創造的に破壊する役割を演ずるとは想像もしなかったであろう。
「軟式庭球の前衛・後衛の垣根を超えて、オールラウンド・プレーヤーが躍動するソフトテニス」への一大転換を成就。根強い反対もあったが、早稲田大学軟式庭球部OBの林敏弘元日本ソフトテニス連盟会長(早大名誉教授、故人)と共に、豊かな構想力をもって説得した。あの「日韓台3国の軟式庭球」から21世紀の今、「加盟国40を数えるソフトテニス」の時代へ飛翔しつつある。(三戸節雄)

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